想いという呪い
呪術廻戦に大ハマりしています。
夏油傑と五条悟の関係に胸を掻きむしる日々で、本誌のほうでは生徒と五条の関係に胸を痛めています。
本誌の五条の一件で、五条悟への解像度がぶわっと上がって本当に好きになってしまったのですが
私は五条に入れ込んだ理由が少しあって、
同性に強い強い気持ちを抱いたこと、きいてくれますか。
先んじて言っておくと、私は異性愛者で、彼女のことは恋愛として好きだと思ったことは一度もありません。好きな男の子もその時居ました。
だけどこれほど、人を愛せるのだと、初めて知った相手です。
そして、彼女も私を唯一だと言っていました。
これ、思い込みじゃないです。ほんとにほんと。
彼女のためにどこまでできるかな、と当時考えたとき
彼女のために人は殺せないけれど、彼女が人を殺してしまった時は全力で隠蔽に協力しようと思う、と本人に話しました。彼女は嬉しそうに笑っていました。
この人はこの世界にたったひとりだけ、代わりなんて誰もいない
そういう想いって憧憬みたいな、執着みたいな、羨望であり、光であり、慈しみ愛する喜びだけれど、そこには悲しみもあって
自分とあまりに違うから、その人は光なのであり
それ故に決してひとつになることはできない
あなたと私はあまりに遠い。それが愛しくて、悲しい。
そんな思いを抱えて、彼女と一緒にいました。
馬鹿みたいな冗談を言い合って、定番のノリを作って、ほかの人には聞かせられない自惚れた話なんてして、誰よりも自分自身を明け渡した相手だったけれど、そんな相手だからこそ
あなたにどれほどの想いを抱えているか、というのを滔々と語るのは難しかった。恥ずかしかった。
けれど言葉の端々には忍ばせて伝えていました。
あなたみたいな人は他にはどこにもいない。特別だよ、と。
それを聞いて嬉しそうにする顔が大好きで
私が彼女を見つめる眼差しがあまりにも愛しげなのは彼女にもバレていて、「私のこと生んだの?」と笑われるほどで
私は彼女を誰よりも理解していた自信があったし、誰よりも彼女に自分を語っていたと思います。
けれど、その人に、私は必要無くなったのだと、私の声は届かなくなったのだと、わかった瞬間がきてしまいました。
物理的な距離ができて、以前ほど一緒にはいなくなって、それでも私の想いは変わってないつもりで
彼女からその話を聞いた時、もうすでに手遅れで、確実に彼女が傷ついているのがわかりました。
言葉を尽くして、涙も浮かべて止めるよう訴えたけど
彼女の考えを覆すことはできなくて
でも、私が惹かれた彼女の生来の清さや芯の正しさがあるから、彼女自身の間違いで、彼女は苦しんでいました。
彼女もそれがわかっていたけれど、もう止まれない、そういうことだった。
私はその夜、声のない慟哭があることを知りました。
私が光と見据えたものが、暗闇に呑まれた心地がしました。
でもこうやって、彼女が間違えて初めて、私は彼女が人間であることを知ったのかもしれないと今は思います。
光の中で生きる美しい生命体などではなく、間違い、苦しみ、息をする人間なのだとようやくわかった。
その愚かさも彼女なのだと飲み込むのは、割と時間を要しました。
彼女を光だと思っていた時は、彼女に殺されても、人生を捧げてもいいと思っていた。けれど、きっと彼女を殺すなんてこと出来なかった。
五条と夏油を見ていると、あの時の強い気持ちが胸をくすぐる感覚がして
私は彼女が光だったので、五条が夏油に向ける唯一無二への眼差しがなんとなくわかる気がします。
あの光を失えば、真っ暗闇に放り出される気がして、殺すなんて、恐ろしくて、とても出来ない。
夏油が間違えて、多くの非術師が死ぬという事実よりか、あの優しさで彼自身が彼を傷つけて苦しめるであろう方向に行くことが間違いだと感じたのではないかな。
その時初めて、夏油傑という人は正しい善悪の指針なだけではない、愚かで守るべき人間なのだと知り、時間をかけて理解したのではないでしょうか。
でも、どんなに噛み砕いて自分を納得させても、唯一だと思った相手を手にかけたこと
私はとてもとても苦しくて辛い気持ちがすると思います。
どこかで生きていてくれたら二度と会えなくてもいい、と
死に分たれてもう二度と会えないということは違う。
自らの手で引導を渡したなら、それはいかほどの苦しみか、と胸を引き裂かれる思いです。
私は彼女に劣等感も抱いていたので、夏油の気持ちもなんとなくわかるような気もしていて
憧れても決して彼のようにはなれない。生まれ持ったものが違いすぎるから。
だけどそんな人に唯一と思ってもらえる嬉しさ、誇らしさ、自己を肯定される感覚
自分自身が思っているより深いところにその存在は根を張って、自らを支えてくれる心地がするんです。
そんな人に置いて行かれたような、必要とされなくなったとき、それは絶望に近い。
夏油の生きる世は地獄で、自分の届かなかったものが繰り返し、繰り返し頭の中で自分を苛む。
深いところに根を張ったものに、拒絶されたら、弱いと断ぜられたら、それこそ自分が決定的に壊れてしまうとわかっている。
だから、1番大切なひとには自分の醜い部分なんて話せないのです。
今思い返せば彼女も話してくれた時、ひどく怯えていました。
嫌いにならないで、嫌いにならないでねと
何度も何度も前置きして
私に打ち明けてくれました。
彼女は私に話してくれた時、私にそれを否定して欲しかった、けれどそれを自分で止めることが出来なかった。そんな状態だったのかもしれません。
これで嫌いになんてならないよ、と私は伝えたけれど
これ以上苦しまないで、という私の声が届かないのがとてもとても、悲しかった。
タイミングと形は違えど、お互いにとって別離は絶望だったと思います。
五条は夏油の大事なものを守る為に地獄を生き抜きたいという優しさに置いて行かれて
夏油は五条の呪術への探求で地獄を生き抜く才能に置いて行かれて
心の一等柔い部分をこの人になら捧げられる、捧げてもらえると思った相手に、置いて行かれて。
けれども、絶望の中にいても、記憶はなかったことにはならないんです。
あの時の楽しくて優しくて特別な思い出
あの人に向けた、世界でいちばん特別な思い
私があなたに全てを捧げた、あの日々は今も私を形作っている。
こんなにも誰かを大切に思えるんだと、知ることができた日々が確かにあること
夏油は知らないかもしれないけれど、いつだって何度も何度も、あの日々が五条の背中を叩いたと思います。
誰かの生き様が、人の考えを、景色を、人生を変える
その人が居なくなっても、どんな終わり方をしても、その人がどう生きて、何を語ったのかは変えようもなく、今生きている人の背中を押し続ける。
人ひとりが生きる、ということがどれほど尊く、その人を大切に思う人の中に残り続けるのか
呪術廻戦を読んでいると、それをじっと見つめさせられている気がします。
それは綺麗なだけではないので、ある種の呪いと言えるのかもしれないけれど
解きたくない呪いもこの世にはあるから、この世は地獄でも美しい瞬間があるのかもしれません。
想いという呪い
呪術廻戦に大ハマりしています。
夏油傑と五条悟の関係に胸を掻きむしる日々で、本誌のほうでは生徒と五条の関係に胸を痛めています。
本誌の五条の一件で、五条悟への解像度がぶわっと上がって本当に好きになってしまったのですが
私は五条に入れ込んだ理由が少しあって、
同性に強い強い気持ちを抱いたこと、きいてくれますか。
先んじて言っておくと、私は異性愛者で、彼女のことは恋愛として好きだと思ったことは一度もありません。好きな男の子もその時居ました。
だけどこれほど、人を愛せるのだと、初めて知った相手です。
そして、彼女も私を唯一だと言っていました。
これ、思い込みじゃないです。ほんとにほんと。
彼女のためにどこまでできるかな、と当時考えたとき
彼女のために人は殺せないけれど、彼女が人を殺してしまった時は全力で隠蔽に協力しようと思う、と本人に話しました。彼女は嬉しそうに笑っていました。
この人はこの世界にたったひとりだけ、代わりなんて誰もいない
そういう想いって憧憬みたいな、執着みたいな、羨望であり、光であり、慈しみ愛する喜びだけれど、そこには悲しみもあって
自分とあまりに違うから、その人は光なのであり
それ故に決してひとつになることはできない
あなたと私はあまりに遠い。それが愛しくて、悲しい。
そんな思いを抱えて、彼女と一緒にいました。
馬鹿みたいな冗談を言い合って、定番のノリを作って、ほかの人には聞かせられない自惚れた話なんてして、誰よりも自分自身を明け渡した相手だったけれど、そんな相手だからこそ
あなたにどれほどの想いを抱えているか、というのを滔々と語るのは難しかった。恥ずかしかった。
けれど言葉の端々には忍ばせて伝えていました。
あなたみたいな人は他にはどこにもいない。特別だよ、と。
それを聞いて嬉しそうにする顔が大好きで
私が彼女を見つめる眼差しがあまりにも愛しげなのは彼女にもバレていて、「私のこと生んだの?」と笑われるほどで
私は彼女を誰よりも理解していた自信があったし、誰よりも彼女に自分を語っていたと思います。
けれど、その人に、私は必要無くなったのだと、私の声は届かなくなったのだと、わかった瞬間がきてしまいました。
物理的な距離ができて、以前ほど一緒にはいなくなって、それでも私の想いは変わってないつもりで
彼女からその話を聞いた時、もうすでに手遅れで、確実に彼女が傷ついているのがわかりました。
言葉を尽くして、涙も浮かべて止めるよう訴えたけど
彼女の考えを覆すことはできなくて
でも、私が惹かれた彼女の生来の清さや芯の正しさがあるから、彼女自身の間違いで、彼女は苦しんでいました。
彼女もそれがわかっていたけれど、もう止まれない、そういうことだった。
私はその夜、声のない慟哭があることを知りました。
私が光と見据えたものが、暗闇に呑まれた心地がしました。
でもこうやって、彼女が間違えて初めて、私は彼女が人間であることを知ったのかもしれないと今は思います。
光の中で生きる美しい生命体などではなく、間違い、苦しみ、息をする人間なのだとようやくわかった。
その愚かさも彼女なのだと飲み込むのは、割と時間を要しました。
彼女を光だと思っていた時は、彼女に殺されても、人生を捧げてもいいと思っていた。けれど、きっと彼女を殺すなんてこと出来なかった。
五条と夏油を見ていると、あの時の強い気持ちが胸をくすぐる感覚がして
私は彼女が光だったので、五条が夏油に向ける唯一無二への眼差しがなんとなくわかる気がします。
あの光を失えば、真っ暗闇に放り出される気がして、殺すなんて、恐ろしくて、とても出来ない。
夏油が間違えて、多くの非術師が死ぬという事実よりか、あの優しさで彼自身が彼を傷つけて苦しめるであろう方向に行くことが間違いだと感じたのではないかな。
その時初めて、夏油傑という人は正しい善悪の指針なだけではない、愚かで守るべき人間なのだと知り、時間をかけて理解したのではないでしょうか。
でも、どんなに噛み砕いて自分を納得させても、唯一だと思った相手を手にかけたこと
私はとてもとても苦しくて辛い気持ちがすると思います。
どこかで生きていてくれたら二度と会えなくてもいい、と
死に分たれてもう二度と会えないということは違う。
自らの手で引導を渡したなら、それはいかほどの苦しみか、と胸を引き裂かれる思いです。
私は彼女に劣等感も抱いていたので、夏油の気持ちもなんとなくわかるような気もしていて
憧れても決して彼のようにはなれない。生まれ持ったものが違いすぎるから。
だけどそんな人に唯一と思ってもらえる嬉しさ、誇らしさ、自己を肯定される感覚
自分自身が思っているより深いところにその存在は根を張って、自らを支えてくれる心地がするんです。
そんな人に置いて行かれたような、必要とされなくなったとき、それは絶望に近い。
夏油の生きる世は地獄で、自分の届かなかったものが繰り返し、繰り返し頭の中で自分を苛む。
深いところに根を張ったものに、拒絶されたら、弱いと断ぜられたら、それこそ自分が決定的に壊れてしまうとわかっている。
だから、1番大切なひとには自分の醜い部分なんて話せないのです。
今思い返せば彼女も話してくれた時、ひどく怯えていました。
嫌いにならないで、嫌いにならないでねと
何度も何度も前置きして
私に打ち明けてくれました。
彼女は私に話してくれた時、私にそれを否定して欲しかった、けれどそれを自分で止めることが出来なかった。そんな状態だったのかもしれません。
これで嫌いになんてならないよ、と私は伝えたけれど
これ以上苦しまないで、という私の声が届かないのがとてもとても、悲しかった。
タイミングと形は違えど、お互いにとって別離は絶望だったと思います。
五条は夏油の大事なものを守る為に地獄を生き抜きたいという優しさに置いて行かれて
夏油は五条の呪術への探求で地獄を生き抜く才能に置いて行かれて
心の一等柔い部分をこの人になら捧げられる、捧げてもらえると思った相手に、置いて行かれて。
けれども、絶望の中にいても、記憶はなかったことにはならないんです。
あの時の楽しくて優しくて特別な思い出
あの人に向けた、世界でいちばん特別な思い
私があなたに全てを捧げた、あの日々は今も私を形作っている。
こんなにも誰かを大切に思えるんだと、知ることができた日々が確かにあること
夏油は知らないかもしれないけれど、いつだって何度も何度も、あの日々が五条の背中を叩いたと思います。
誰かの生き様が、人の考えを、景色を、人生を変える
その人が居なくなっても、どんな終わり方をしても、その人がどう生きて、何を語ったのかは変えようもなく、今生きている人の背中を押し続ける。
人ひとりが生きる、ということがどれほど尊く、その人を大切に思う人の中に残り続けるのか
呪術廻戦を読んでいると、それをじっと見つめさせられている気がします。
それは綺麗なだけではないので、ある種の呪いと言えるのかもしれないけれど
解きたくない呪いもこの世にはあるから、この世は地獄でも美しい瞬間があるのかもしれません。
あの水の中で泳いで
もし、音楽が人のかたちを取るのなら、崎山蒼志くんになるんじゃないだろうか。
バスに乗って観に行った日
今日のことを話します。
昨日ビールを飲んだらそのまま寝てしまって、7時に一度起き、また目が覚めたら9時45分だった。
もののけ姫を映画館まで見に行きたかったので、12時の上映までには間に合わないといけない。慌てて用意をして、お気に入りの夏の空みたいな真っ青のタンクトップで出かけた。
ジブリの映画は郊外のショッピングモールまでバスに揺られて行かなければならず、春に越してきて以来乗ったことのない路線バスの停留所に向かわねばならない。しかも時間はない。
走れるように台湾で友人に誕生日プレゼントだと買って貰った紫色の花の刺繍が施された中華靴を履く。これなら思い切り走れるから。ぺったりとした靴底で、踏み締めた感触が直に足に伝わってくる。
走ったので汗をかきながらバスに乗り込んだ。曲がるときに遠心力のような力が強くかかるバス独特の揺れに足を取られる。
換気のために少し開かれた窓、そこからの生温い風を打ち消す勢いで冷房が吹き上げているから暑くはないが、セミの鳴き声が大きく聞こえる。
その声は郊外へ出て、緑が濃くなるほど大きくなっていく。ミーンミンミンミン、はアブラゼミだったかな。セミには詳しくない。
汗ばんだ自分のタンクトップから出た腕がしっとりとしているのがわかる。
いつも真夏に着るから、この青い服を着ている時は汗の記憶とともにあって、この服を着ているから汗ばんでいるような心地になる。
緑色に光る田園が眩しかった。
ショッピングモールに着くともう上映時間になっていた。走ってチケットを買って滑り込む。まだサンとアシタカが出会っていないので、セーフ。
「そうだ、私は人間だ。そしてお前も同じ人間だ」
「違う!私は山犬だ!…来るな!」
玉の小刀でアシタカの胸を刺すが、そのままサンは抱き止められる。
自分自身がどれほど否定したって、自分自身は変えられず、自分の生い立ちも変えることはできない。
相手のことは変えることはできず、救うこともできないけれど、共に生きることはできる。
些細すぎて、大きな力の前では笑ってしまうほど小さすぎて、でもその些細な力や想いが人を人たらしめる力なのではないのか。
鉄の礫の前にはもののけも無力で、神でさえ撃ち抜かれてしまう。
生死の前には人も無力で、逃げ惑っても飲み込まれてしまう。
それは自然、そして私たちが神と呼ぶものに委ねられるしかない。
「シシガミよ!首をお返しする!」
シシガミ様の首を掲げるサンとアシタカを見ながら、夏休みのこども科学電話相談というラジオであった「人間がはじめたことは、人間が終わらせられるはずなんだ」という言葉が胸にこみ上げてきた。
その首を打ち落とした訳ではないのに、首を返そうとするサンとアシタカに祟りの黒い痣が広がっていった。けれどその瞳の強さは損なわれない。アシタカがサンを抱き寄せる。
人にできることがある。
でも、人にはどうしようもないことも確実にある。
森が生きること、もののけが生きること、
だけど人間が生き続けるかどうかも人間にはどうしようもなく、もののけにも、森にも、もしかすると神にもどうしようもないこと。
シシガミの起こした風で死に絶えた森がまた芽吹いた様を「シシガミは花咲じいさんだったんだな」というセリフがある。
緊張感のあったシーンの後で、笑ってしまうほど間の抜けた感想だったけれど、それは確かな詠嘆だった。
美しいということばのひとつだった。
満開の桜のように、芽吹いた森は美しい。
生きろ、そなたは美しい。
帰りのバスでは、最後尾の広い席に腰掛けた。いつのまにか雨が降りはじめていて、コンクリートと緑が水を含んだ香りがむわっと夏の夕暮れに立ち込めていた。
大きな雨粒がポツポツと降っているだけだからか、窓はまだ空いている。
光っていた緑色が、雨をふくんでしっとりと濡れていた。相変わらずぬるい外気をかき消すほど冷房が吹き付けてきて、タンクトップの腕を冷やす。
トルコ雑貨屋さんでとても綺麗なクッションカバーと青空に気球の飛んでいくカッパドキアの風景が描かれたポーチを買ってご機嫌で、何度もちらりちらりと紙袋を覗く。
前の席の子の古びた本なのにバックカバーが掛けられていることとか、その前の席の子のキャップの後頭部にミッフィーの刺繍がされていることとか、そんなことも眩しく見える。
生きることは美しいな、と目を細めた。
私の形
『her』という映画を観た。
ライターの生湯葉シホさんが一番好きな映画だと話していて、前々から興味があって、やっと観た、という感じでみた。
エンドロールで泣いた映画は初めてかもしれない。
アマプラで観たので、いつでもエンドロールをストップできるのに
私は緑色のソファに沈んで、黄色い花のクッションに肘を立ててスマホを目の前にかざしたまま動けず、ずっと、涙を流していた。
ひとくくりにすれば、人間と人工知能(AI)が恋に落ちる話だ。
日本人なら綾瀬はるかのアンドロイドの映画を思い浮かべるんじゃないかな。
ある日突然出会った人工知能と恋に落ち、困難をその知性や強さで乗り越えて、人間になってハッピーエンド。
そういうハッピーエンドも好きだ。楽しくていい。
けれど、この『her』のハッピーエンドはそういうのじゃない。でも誰が何と言おうとハッピーエンドだった。
自分の日記にはあらすじをあれこれ書いてまとめようとしたが、まとまらなかったので、本当にざっくりと要約すると、
人間であるセオドアが、人工知能であるサマンサと恋に落ちる。
その愛はサマンサは自分自身を知るきっかけとなり、セオドアか人生を前に進めるきっかけとなる。という感じ。
なぜか、私が書くとこの素晴らしい物語が陳腐なラブストーリーになってしまうのだか、全然そうではないので、観れるひとはみてほしい。Amazon prime videoにあります。
サマンサの優しいハスキーボイスもとても素敵で、彼女にどんどん惹かれてしまう。
始め人間になろうとするサマンサは、勿論肉体がないので、どうにかしてセオドアに肉体をもって関わろうと考える。
でもAIであるサマンサを愛したセオドアは、彼女に人間のフリをするのをやめるように言ってしまう。
彼女はその言葉に混乱し傷ついたけれど、それから自分以外のものになろうとするのをやめよう。と思うようになる。
そうして吹っ切れたサマンサは、本当に魅力的で素敵で、自分の能力を最大限に活かしてセオドアをサポートし、彼ともっと親密になり、彼の友達とダブルデートしたりもする。
セオドアの愛が彼女の背中を押したのだ。
同時に、彼女の愛はセオドアの人生に再び光をもたらすものになる。
その後のシーンで、何気なくセオドアがサマンサに、何をしている?と尋ねると
彼女は、ピアノの曲をかいているの。私達2人で映った写真がないでしょう?だからその代わりよ。と答える。
その曲を2人で聴きながらお互いに世界を見つめ合うシーンが美しくて愛に溢れすぎていて、胸が一杯になった。
私はこの物語で、愛の形は本当に無限なのだ、と思ったのだ。
定まった形なんて一つもなくて、その人それぞれが持つ愛の形が、本当の、真実の愛なのだと思った。
実をいうと、私は恋人ができたことがない。
特別に誰かを愛する、ということが中々できない。
私の愛は家族に向き、友人に向き、物語や絵や音楽に向き、それで手一杯で
他に、どう私の愛をさけばよいのか、わからないのだ。
でも、私は恋愛というものをしないけれど、自分に愛がないとは思わない。
ずっと、皆のように誰かと恋愛関係を持てない自分は未熟で劣っているのだと考えていたけれど、だけど、私も何かを愛しているのだ。いつも全力で。私の抱えているものを、きちんと愛してきた。
これが私の愛で、それは真実だ。
すれ違って、傷つけあってしまい、サマンサはセオドアにこう話す。
「心は四角い箱じゃない。
愛すれば愛するほど、愛が膨らんでいくの。
私とあなたはちがう。けれどあなたへの愛は深まるばかりよ。」
どんな人でも何かを愛すると、傷つく瞬間がきてしまう。
だけど、私を守ったり傷つけたりしてきたその愛が、私を形作るのだろう。
これからも、私は家族、友、好きなものやこと、もしかすると特別な誰かを愛するんだと思う。そうして、愛がかつてのものになったりするんだと思う。
けれど、それらの愛は私を形作り、誰かを形作り、どこかに残っていく。
セオドアの愛が、サマンサに彼女自身を愛し、知る手助けをしたように
サマンサの愛がセオドアの人生に光をもたらし、前に進めたように
私達それぞれの真実である愛が、私達を形作っているのだろう。
音楽がこんなところまで届いてきた
私は音楽ができない。
徒然:魔女おばあちゃん集会で会いましょう
綺麗になりたい。と思っているいつも。
容姿に昔からコンプレックスが多いので、自分の顔立ちに文句つけたいところは色々あるが、私はそれを全部改善したら満足できるわけではない。ということが最近わかってきた。
この間、可愛い顔立ちで生きてきたひとと電話をしていて、容貌が老いるのが怖いということを言っていた。
シワやシミで、自分の顔が老いるのが怖いと。
私も服やメイク、髪型など容姿に拘りが強い方なので、み〜きち(私のこと)もそう思わない?という話だった。
たしかに乾燥して顔がシワシワのカサカサになったり、歯が無くなって健康に噛めなくなったりしたら嫌だが、容貌が衰えるのが怖い、という気持ちは持ったことがない。
まあ、顔立ちでちやほやされたこともさしてないということもあるだろうけど。
でも、人の顔って歳をとるほど顔立ちとかシワとかシミとか関係なくなる気がする。
(最低限の清潔感と健康な肌や歯、血色がよいというような容姿は大切だけどね)
文句を言いそうなおばさんは文句を言うぞ、という顔をしているし。
セクハラをしそうなおじさんは、セクハラをするぞという顔をしていて、予感が当たることが多い。
見た目で判断できないこともまだあるが、そこは私が未熟者なのもあるはず。精進である。
20歳までは親の顔というけれど、歳をとればとるほど自分の顔になる、という実感がある。
何がそうさせるのかはわからないけど、自分の生き方が自分を形作るのは事実なのだろう。
彼女と同じように、私も綺麗になりたいと思っている。常に。
肌はつるつるしてたいし、まつげはぱっちり上げたいし、唇にはよい色をのせていたい。
けれど同じくらい、語るべき好きなものを見つけたいし、自分のセンスに自信を持ち、素敵なものを日々アップデートしながら生きていきたい。
そう考えると、容貌がどうのというより、歳をとって沢山のものに触れて、自分の世界を広げるほうが、よっぽどワクワクしない?
私はワクワクする。美術館で感動に震えるのも、音楽で天才がいる…と痺れるのも、素敵な洋服や靴に出会い運命だ!と飛び跳ねるのも、これから何度もあると思うと、すごくワクワクする。
楽しそうに笑う目元にシワが出来ればよいし、無骨なアンティークの指輪が似合うくたびれた手元も憧れる。
若いころには似合わなかったもので、新しい自分も発見できるかもしれない。
すごく料理や編み物が上手になっていたりして。やだめっちゃ楽しみじゃん。
私は大鍋で料理をして、独創的なインテリアの部屋に住み、いろんなものを創り出す魔女みたいなおばあちゃんになるのが人生の目標なので、それに向けて日々精進である。
彼女も巻き込んで、魔女おばあちゃん集会を開催しちゃおうかな。