水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

想いという呪い

呪術廻戦に大ハマりしています。

夏油傑と五条悟の関係に胸を掻きむしる日々で、本誌のほうでは生徒と五条の関係に胸を痛めています。

本誌の五条の一件で、五条悟への解像度がぶわっと上がって本当に好きになってしまったのですが

私は五条に入れ込んだ理由が少しあって、

 

同性に強い強い気持ちを抱いたこと、きいてくれますか。

先んじて言っておくと、私は異性愛者で、彼女のことは恋愛として好きだと思ったことは一度もありません。好きな男の子もその時居ました。

だけどこれほど、人を愛せるのだと、初めて知った相手です。

そして、彼女も私を唯一だと言っていました。

これ、思い込みじゃないです。ほんとにほんと。

 

彼女のためにどこまでできるかな、と当時考えたとき

彼女のために人は殺せないけれど、彼女が人を殺してしまった時は全力で隠蔽に協力しようと思う、と本人に話しました。彼女は嬉しそうに笑っていました。

 

この人はこの世界にたったひとりだけ、代わりなんて誰もいない

そういう想いって憧憬みたいな、執着みたいな、羨望であり、光であり、慈しみ愛する喜びだけれど、そこには悲しみもあって

自分とあまりに違うから、その人は光なのであり

それ故に決してひとつになることはできない

あなたと私はあまりに遠い。それが愛しくて、悲しい。

そんな思いを抱えて、彼女と一緒にいました。

馬鹿みたいな冗談を言い合って、定番のノリを作って、ほかの人には聞かせられない自惚れた話なんてして、誰よりも自分自身を明け渡した相手だったけれど、そんな相手だからこそ

あなたにどれほどの想いを抱えているか、というのを滔々と語るのは難しかった。恥ずかしかった。

けれど言葉の端々には忍ばせて伝えていました。

あなたみたいな人は他にはどこにもいない。特別だよ、と。

それを聞いて嬉しそうにする顔が大好きで

私が彼女を見つめる眼差しがあまりにも愛しげなのは彼女にもバレていて、「私のこと生んだの?」と笑われるほどで

私は彼女を誰よりも理解していた自信があったし、誰よりも彼女に自分を語っていたと思います。

 

けれど、その人に、私は必要無くなったのだと、私の声は届かなくなったのだと、わかった瞬間がきてしまいました。

 

物理的な距離ができて、以前ほど一緒にはいなくなって、それでも私の想いは変わってないつもりで

彼女からその話を聞いた時、もうすでに手遅れで、確実に彼女が傷ついているのがわかりました。

言葉を尽くして、涙も浮かべて止めるよう訴えたけど

彼女の考えを覆すことはできなくて

でも、私が惹かれた彼女の生来の清さや芯の正しさがあるから、彼女自身の間違いで、彼女は苦しんでいました。

彼女もそれがわかっていたけれど、もう止まれない、そういうことだった。

私はその夜、声のない慟哭があることを知りました。

私が光と見据えたものが、暗闇に呑まれた心地がしました。

 

でもこうやって、彼女が間違えて初めて、私は彼女が人間であることを知ったのかもしれないと今は思います。

光の中で生きる美しい生命体などではなく、間違い、苦しみ、息をする人間なのだとようやくわかった。

その愚かさも彼女なのだと飲み込むのは、割と時間を要しました。

彼女を光だと思っていた時は、彼女に殺されても、人生を捧げてもいいと思っていた。けれど、きっと彼女を殺すなんてこと出来なかった。

 

五条と夏油を見ていると、あの時の強い気持ちが胸をくすぐる感覚がして

私は彼女が光だったので、五条が夏油に向ける唯一無二への眼差しがなんとなくわかる気がします。

あの光を失えば、真っ暗闇に放り出される気がして、殺すなんて、恐ろしくて、とても出来ない。

夏油が間違えて、多くの非術師が死ぬという事実よりか、あの優しさで彼自身が彼を傷つけて苦しめるであろう方向に行くことが間違いだと感じたのではないかな。

その時初めて、夏油傑という人は正しい善悪の指針なだけではない、愚かで守るべき人間なのだと知り、時間をかけて理解したのではないでしょうか。

でも、どんなに噛み砕いて自分を納得させても、唯一だと思った相手を手にかけたこと

私はとてもとても苦しくて辛い気持ちがすると思います。

どこかで生きていてくれたら二度と会えなくてもいい、と

死に分たれてもう二度と会えないということは違う。

自らの手で引導を渡したなら、それはいかほどの苦しみか、と胸を引き裂かれる思いです。

 

 

私は彼女に劣等感も抱いていたので、夏油の気持ちもなんとなくわかるような気もしていて

憧れても決して彼のようにはなれない。生まれ持ったものが違いすぎるから。

だけどそんな人に唯一と思ってもらえる嬉しさ、誇らしさ、自己を肯定される感覚

自分自身が思っているより深いところにその存在は根を張って、自らを支えてくれる心地がするんです。

そんな人に置いて行かれたような、必要とされなくなったとき、それは絶望に近い。

夏油の生きる世は地獄で、自分の届かなかったものが繰り返し、繰り返し頭の中で自分を苛む。

深いところに根を張ったものに、拒絶されたら、弱いと断ぜられたら、それこそ自分が決定的に壊れてしまうとわかっている。

だから、1番大切なひとには自分の醜い部分なんて話せないのです。

 

今思い返せば彼女も話してくれた時、ひどく怯えていました。

嫌いにならないで、嫌いにならないでねと

何度も何度も前置きして

私に打ち明けてくれました。

彼女は私に話してくれた時、私にそれを否定して欲しかった、けれどそれを自分で止めることが出来なかった。そんな状態だったのかもしれません。

これで嫌いになんてならないよ、と私は伝えたけれど

これ以上苦しまないで、という私の声が届かないのがとてもとても、悲しかった。

 

タイミングと形は違えど、お互いにとって別離は絶望だったと思います。

五条は夏油の大事なものを守る為に地獄を生き抜きたいという優しさに置いて行かれて

夏油は五条の呪術への探求で地獄を生き抜く才能に置いて行かれて

心の一等柔い部分をこの人になら捧げられる、捧げてもらえると思った相手に、置いて行かれて。

 

けれども、絶望の中にいても、記憶はなかったことにはならないんです。

あの時の楽しくて優しくて特別な思い出

あの人に向けた、世界でいちばん特別な思い

私があなたに全てを捧げた、あの日々は今も私を形作っている。

こんなにも誰かを大切に思えるんだと、知ることができた日々が確かにあること

夏油は知らないかもしれないけれど、いつだって何度も何度も、あの日々が五条の背中を叩いたと思います。

誰かの生き様が、人の考えを、景色を、人生を変える

その人が居なくなっても、どんな終わり方をしても、その人がどう生きて、何を語ったのかは変えようもなく、今生きている人の背中を押し続ける。

 

人ひとりが生きる、ということがどれほど尊く、その人を大切に思う人の中に残り続けるのか

呪術廻戦を読んでいると、それをじっと見つめさせられている気がします。

それは綺麗なだけではないので、ある種の呪いと言えるのかもしれないけれど

解きたくない呪いもこの世にはあるから、この世は地獄でも美しい瞬間があるのかもしれません。

想いという呪い

呪術廻戦に大ハマりしています。

夏油傑と五条悟の関係に胸を掻きむしる日々で、本誌のほうでは生徒と五条の関係に胸を痛めています。

本誌の五条の一件で、五条悟への解像度がぶわっと上がって本当に好きになってしまったのですが

私は五条に入れ込んだ理由が少しあって、

 

同性に強い強い気持ちを抱いたこと、きいてくれますか。

先んじて言っておくと、私は異性愛者で、彼女のことは恋愛として好きだと思ったことは一度もありません。好きな男の子もその時居ました。

だけどこれほど、人を愛せるのだと、初めて知った相手です。

そして、彼女も私を唯一だと言っていました。

これ、思い込みじゃないです。ほんとにほんと。

 

彼女のためにどこまでできるかな、と当時考えたとき

彼女のために人は殺せないけれど、彼女が人を殺してしまった時は全力で隠蔽に協力しようと思う、と本人に話しました。彼女は嬉しそうに笑っていました。

 

この人はこの世界にたったひとりだけ、代わりなんて誰もいない

そういう想いって憧憬みたいな、執着みたいな、羨望であり、光であり、慈しみ愛する喜びだけれど、そこには悲しみもあって

自分とあまりに違うから、その人は光なのであり

それ故に決してひとつになることはできない

あなたと私はあまりに遠い。それが愛しくて、悲しい。

そんな思いを抱えて、彼女と一緒にいました。

馬鹿みたいな冗談を言い合って、定番のノリを作って、ほかの人には聞かせられない自惚れた話なんてして、誰よりも自分自身を明け渡した相手だったけれど、そんな相手だからこそ

あなたにどれほどの想いを抱えているか、というのを滔々と語るのは難しかった。恥ずかしかった。

けれど言葉の端々には忍ばせて伝えていました。

あなたみたいな人は他にはどこにもいない。特別だよ、と。

それを聞いて嬉しそうにする顔が大好きで

私が彼女を見つめる眼差しがあまりにも愛しげなのは彼女にもバレていて、「私のこと生んだの?」と笑われるほどで

私は彼女を誰よりも理解していた自信があったし、誰よりも彼女に自分を語っていたと思います。

 

けれど、その人に、私は必要無くなったのだと、私の声は届かなくなったのだと、わかった瞬間がきてしまいました。

 

物理的な距離ができて、以前ほど一緒にはいなくなって、それでも私の想いは変わってないつもりで

彼女からその話を聞いた時、もうすでに手遅れで、確実に彼女が傷ついているのがわかりました。

言葉を尽くして、涙も浮かべて止めるよう訴えたけど

彼女の考えを覆すことはできなくて

でも、私が惹かれた彼女の生来の清さや芯の正しさがあるから、彼女自身の間違いで、彼女は苦しんでいました。

彼女もそれがわかっていたけれど、もう止まれない、そういうことだった。

私はその夜、声のない慟哭があることを知りました。

私が光と見据えたものが、暗闇に呑まれた心地がしました。

 

でもこうやって、彼女が間違えて初めて、私は彼女が人間であることを知ったのかもしれないと今は思います。

光の中で生きる美しい生命体などではなく、間違い、苦しみ、息をする人間なのだとようやくわかった。

その愚かさも彼女なのだと飲み込むのは、割と時間を要しました。

彼女を光だと思っていた時は、彼女に殺されても、人生を捧げてもいいと思っていた。けれど、きっと彼女を殺すなんてこと出来なかった。

 

五条と夏油を見ていると、あの時の強い気持ちが胸をくすぐる感覚がして

私は彼女が光だったので、五条が夏油に向ける唯一無二への眼差しがなんとなくわかる気がします。

あの光を失えば、真っ暗闇に放り出される気がして、殺すなんて、恐ろしくて、とても出来ない。

夏油が間違えて、多くの非術師が死ぬという事実よりか、あの優しさで彼自身が彼を傷つけて苦しめるであろう方向に行くことが間違いだと感じたのではないかな。

その時初めて、夏油傑という人は正しい善悪の指針なだけではない、愚かで守るべき人間なのだと知り、時間をかけて理解したのではないでしょうか。

でも、どんなに噛み砕いて自分を納得させても、唯一だと思った相手を手にかけたこと

私はとてもとても苦しくて辛い気持ちがすると思います。

どこかで生きていてくれたら二度と会えなくてもいい、と

死に分たれてもう二度と会えないということは違う。

自らの手で引導を渡したなら、それはいかほどの苦しみか、と胸を引き裂かれる思いです。

 

 

私は彼女に劣等感も抱いていたので、夏油の気持ちもなんとなくわかるような気もしていて

憧れても決して彼のようにはなれない。生まれ持ったものが違いすぎるから。

だけどそんな人に唯一と思ってもらえる嬉しさ、誇らしさ、自己を肯定される感覚

自分自身が思っているより深いところにその存在は根を張って、自らを支えてくれる心地がするんです。

そんな人に置いて行かれたような、必要とされなくなったとき、それは絶望に近い。

夏油の生きる世は地獄で、自分の届かなかったものが繰り返し、繰り返し頭の中で自分を苛む。

深いところに根を張ったものに、拒絶されたら、弱いと断ぜられたら、それこそ自分が決定的に壊れてしまうとわかっている。

だから、1番大切なひとには自分の醜い部分なんて話せないのです。

 

今思い返せば彼女も話してくれた時、ひどく怯えていました。

嫌いにならないで、嫌いにならないでねと

何度も何度も前置きして

私に打ち明けてくれました。

彼女は私に話してくれた時、私にそれを否定して欲しかった、けれどそれを自分で止めることが出来なかった。そんな状態だったのかもしれません。

これで嫌いになんてならないよ、と私は伝えたけれど

これ以上苦しまないで、という私の声が届かないのがとてもとても、悲しかった。

 

タイミングと形は違えど、お互いにとって別離は絶望だったと思います。

五条は夏油の大事なものを守る為に地獄を生き抜きたいという優しさに置いて行かれて

夏油は五条の呪術への探求で地獄を生き抜く才能に置いて行かれて

心の一等柔い部分をこの人になら捧げられる、捧げてもらえると思った相手に、置いて行かれて。

 

けれども、絶望の中にいても、記憶はなかったことにはならないんです。

あの時の楽しくて優しくて特別な思い出

あの人に向けた、世界でいちばん特別な思い

私があなたに全てを捧げた、あの日々は今も私を形作っている。

こんなにも誰かを大切に思えるんだと、知ることができた日々が確かにあること

夏油は知らないかもしれないけれど、いつだって何度も何度も、あの日々が五条の背中を叩いたと思います。

誰かの生き様が、人の考えを、景色を、人生を変える

その人が居なくなっても、どんな終わり方をしても、その人がどう生きて、何を語ったのかは変えようもなく、今生きている人の背中を押し続ける。

 

人ひとりが生きる、ということがどれほど尊く、その人を大切に思う人の中に残り続けるのか

呪術廻戦を読んでいると、それをじっと見つめさせられている気がします。

それは綺麗なだけではないので、ある種の呪いと言えるのかもしれないけれど

解きたくない呪いもこの世にはあるから、この世は地獄でも美しい瞬間があるのかもしれません。

あの水の中で泳いで

もし、音楽が人のかたちを取るのなら、崎山蒼志くんになるんじゃないだろうか。

そう思えるくらいに凄いライブだった。音に声に圧倒されて、響く音があまりにも厚くて途中までバンドが演奏してると思っていた。
これはもう体験と呼べる部類のものだ。会場の後方にいたので人混みに埋もれていたのもあってか、水の中に沈んでいる様な感覚がずっとあった。音がそこに満ち満ちていて、私たちは魚のように呼吸をする。音楽を呑み込んで酸素を得る。ここでしかできない息の仕方。
 
水に関する曲をします、と言ってから更に深いところへ沈んで、激流になった。
押し流されない様に思わず踏ん張る、自分をぎゅっと掴んで目を瞑る。耳の横を流れがかすっていくような感覚さえする。
それから殆ど目を閉じていた気がする、波の音や川の流れを聴くときのように身体を任せたくてそうしたのかもしれない。
 
『はたち・みずのかたち』というタイトル。これがはたちかあ、と思ってしまう。
何かをしっかりと握りしめて生きていれば、二十歳という歳でここまで辿り着けるものなのだろうか。
私は音楽や詩や小説など、そういったものは創らないのであくまで想像になってしまうけれど、そういうものって語るよりも自分自身が滲む、あるいは曝け出されてしまうものなのではないだろうか。
私もちょこちょことこういった文章を書く様になって、以前より内省するようになったと思う。
作品を創り上げるまでに、どれほどの内省と客観と葛藤があるんだろう。それを幼少〜二十歳まで行い続けるって…彼を天才で語り尽くしてはいけない何かが、そこにある気がする。
 
天才というワードが出ると、どうしても大好きなブルーピリオドという漫画が浮かんでくる。
絵画とか美術に関する漫画なのだけれど、主人公の八虎は「俺は天才じゃないから人よりコストをかけてる、それだけだ」という。
しかし、彼が天才と称する世田介くんは「俺には絵しかないから」「何でも持ってるヤツがこっちくんなよ」と八虎にいう。
正直ど素人には凄い人がどちらであろうと、天才だ!と思ってしまう。
崎山くんがどちらにあたるのか、または違った形なのかはど素人たる私には全くわからないが、中学生で天才少年として一躍有名になった彼がここまで、はたちになるまで音楽というものにどれだけ時間をかけて、何かを犠牲にして、そしてこれを愛して育んできたのかを考えると、胸が熱く苦しくなる。ありがとうね。
 
恩田陸さんの小説の一節を読んでから、芸術とは人生の澱の上の上澄みである、という考えを持っているのだけれど、彼の人生の上澄みがこれほど澄み渡った水であり、その中で呼吸できた今夜がとても幸福だった。
崎山蒼志くんの音楽への愛と感性が、彼を幸福へと連れて行ってくれますように、小さな部屋で魚はそう祈ってしまいます。

 

バスに乗って観に行った日

今日のことを話します。

昨日ビールを飲んだらそのまま寝てしまって、7時に一度起き、また目が覚めたら9時45分だった。


もののけ姫を映画館まで見に行きたかったので、12時の上映までには間に合わないといけない。慌てて用意をして、お気に入りの夏の空みたいな真っ青のタンクトップで出かけた。

ジブリの映画は郊外のショッピングモールまでバスに揺られて行かなければならず、春に越してきて以来乗ったことのない路線バスの停留所に向かわねばならない。しかも時間はない。

走れるように台湾で友人に誕生日プレゼントだと買って貰った紫色の花の刺繍が施された中華靴を履く。これなら思い切り走れるから。ぺったりとした靴底で、踏み締めた感触が直に足に伝わってくる。


走ったので汗をかきながらバスに乗り込んだ。曲がるときに遠心力のような力が強くかかるバス独特の揺れに足を取られる。

換気のために少し開かれた窓、そこからの生温い風を打ち消す勢いで冷房が吹き上げているから暑くはないが、セミの鳴き声が大きく聞こえる。

その声は郊外へ出て、緑が濃くなるほど大きくなっていく。ミーンミンミンミン、はアブラゼミだったかな。セミには詳しくない。

汗ばんだ自分のタンクトップから出た腕がしっとりとしているのがわかる。

いつも真夏に着るから、この青い服を着ている時は汗の記憶とともにあって、この服を着ているから汗ばんでいるような心地になる。

緑色に光る田園が眩しかった。


ショッピングモールに着くともう上映時間になっていた。走ってチケットを買って滑り込む。まだサンとアシタカが出会っていないので、セーフ。


「そうだ、私は人間だ。そしてお前も同じ人間だ」

「違う!私は山犬だ!…来るな!」

玉の小刀でアシタカの胸を刺すが、そのままサンは抱き止められる。

自分自身がどれほど否定したって、自分自身は変えられず、自分の生い立ちも変えることはできない。

相手のことは変えることはできず、救うこともできないけれど、共に生きることはできる。

些細すぎて、大きな力の前では笑ってしまうほど小さすぎて、でもその些細な力や想いが人を人たらしめる力なのではないのか。


鉄の礫の前にはもののけも無力で、神でさえ撃ち抜かれてしまう。

生死の前には人も無力で、逃げ惑っても飲み込まれてしまう。

それは自然、そして私たちが神と呼ぶものに委ねられるしかない。


「シシガミよ!首をお返しする!」

シシガミ様の首を掲げるサンとアシタカを見ながら、夏休みのこども科学電話相談というラジオであった「人間がはじめたことは、人間が終わらせられるはずなんだ」という言葉が胸にこみ上げてきた。

その首を打ち落とした訳ではないのに、首を返そうとするサンとアシタカに祟りの黒い痣が広がっていった。けれどその瞳の強さは損なわれない。アシタカがサンを抱き寄せる。


人にできることがある。

でも、人にはどうしようもないことも確実にある。

森が生きること、もののけが生きること、

だけど人間が生き続けるかどうかも人間にはどうしようもなく、もののけにも、森にも、もしかすると神にもどうしようもないこと。


シシガミの起こした風で死に絶えた森がまた芽吹いた様を「シシガミは花咲じいさんだったんだな」というセリフがある。

緊張感のあったシーンの後で、笑ってしまうほど間の抜けた感想だったけれど、それは確かな詠嘆だった。

美しいということばのひとつだった。

満開の桜のように、芽吹いた森は美しい。

生きろ、そなたは美しい。




帰りのバスでは、最後尾の広い席に腰掛けた。いつのまにか雨が降りはじめていて、コンクリートと緑が水を含んだ香りがむわっと夏の夕暮れに立ち込めていた。

大きな雨粒がポツポツと降っているだけだからか、窓はまだ空いている。

光っていた緑色が、雨をふくんでしっとりと濡れていた。相変わらずぬるい外気をかき消すほど冷房が吹き付けてきて、タンクトップの腕を冷やす。

トルコ雑貨屋さんでとても綺麗なクッションカバーと青空に気球の飛んでいくカッパドキアの風景が描かれたポーチを買ってご機嫌で、何度もちらりちらりと紙袋を覗く。

前の席の子の古びた本なのにバックカバーが掛けられていることとか、その前の席の子のキャップの後頭部にミッフィーの刺繍がされていることとか、そんなことも眩しく見える。


生きることは美しいな、と目を細めた。


f:id:under_water:20200813235205j:plain

私の形

『her』という映画を観た。

ライターの生湯葉シホさんが一番好きな映画だと話していて、前々から興味があって、やっと観た、という感じでみた。


エンドロールで泣いた映画は初めてかもしれない。

アマプラで観たので、いつでもエンドロールをストップできるのに

私は緑色のソファに沈んで、黄色い花のクッションに肘を立ててスマホを目の前にかざしたまま動けず、ずっと、涙を流していた。


ひとくくりにすれば、人間と人工知能(AI)が恋に落ちる話だ。

日本人なら綾瀬はるかのアンドロイドの映画を思い浮かべるんじゃないかな。

ある日突然出会った人工知能と恋に落ち、困難をその知性や強さで乗り越えて、人間になってハッピーエンド。

そういうハッピーエンドも好きだ。楽しくていい。

けれど、この『her』のハッピーエンドはそういうのじゃない。でも誰が何と言おうとハッピーエンドだった。



自分の日記にはあらすじをあれこれ書いてまとめようとしたが、まとまらなかったので、本当にざっくりと要約すると、

人間であるセオドアが、人工知能であるサマンサと恋に落ちる。

その愛はサマンサは自分自身を知るきっかけとなり、セオドアか人生を前に進めるきっかけとなる。という感じ。


なぜか、私が書くとこの素晴らしい物語が陳腐なラブストーリーになってしまうのだか、全然そうではないので、観れるひとはみてほしい。Amazon prime videoにあります。

サマンサの優しいハスキーボイスもとても素敵で、彼女にどんどん惹かれてしまう。


始め人間になろうとするサマンサは、勿論肉体がないので、どうにかしてセオドアに肉体をもって関わろうと考える。

でもAIであるサマンサを愛したセオドアは、彼女に人間のフリをするのをやめるように言ってしまう。

彼女はその言葉に混乱し傷ついたけれど、それから自分以外のものになろうとするのをやめよう。と思うようになる。

そうして吹っ切れたサマンサは、本当に魅力的で素敵で、自分の能力を最大限に活かしてセオドアをサポートし、彼ともっと親密になり、彼の友達とダブルデートしたりもする。

セオドアの愛が彼女の背中を押したのだ。

同時に、彼女の愛はセオドアの人生に再び光をもたらすものになる。


その後のシーンで、何気なくセオドアがサマンサに、何をしている?と尋ねると

彼女は、ピアノの曲をかいているの。私達2人で映った写真がないでしょう?だからその代わりよ。と答える。

その曲を2人で聴きながらお互いに世界を見つめ合うシーンが美しくて愛に溢れすぎていて、胸が一杯になった。



私はこの物語で、愛の形は本当に無限なのだ、と思ったのだ。

定まった形なんて一つもなくて、その人それぞれが持つ愛の形が、本当の、真実の愛なのだと思った。


実をいうと、私は恋人ができたことがない。

特別に誰かを愛する、ということが中々できない。


私の愛は家族に向き、友人に向き、物語や絵や音楽に向き、それで手一杯で

他に、どう私の愛をさけばよいのか、わからないのだ。


でも、私は恋愛というものをしないけれど、自分に愛がないとは思わない。


ずっと、皆のように誰かと恋愛関係を持てない自分は未熟で劣っているのだと考えていたけれど、だけど、私も何かを愛しているのだ。いつも全力で。私の抱えているものを、きちんと愛してきた。

これが私の愛で、それは真実だ。


すれ違って、傷つけあってしまい、サマンサはセオドアにこう話す。

「心は四角い箱じゃない。

愛すれば愛するほど、愛が膨らんでいくの。

私とあなたはちがう。けれどあなたへの愛は深まるばかりよ。」


どんな人でも何かを愛すると、傷つく瞬間がきてしまう。

だけど、私を守ったり傷つけたりしてきたその愛が、私を形作るのだろう。

これからも、私は家族、友、好きなものやこと、もしかすると特別な誰かを愛するんだと思う。そうして、愛がかつてのものになったりするんだと思う。


けれど、それらの愛は私を形作り、誰かを形作り、どこかに残っていく。

セオドアの愛が、サマンサに彼女自身を愛し、知る手助けをしたように

サマンサの愛がセオドアの人生に光をもたらし、前に進めたように


私達それぞれの真実である愛が、私達を形作っているのだろう。


f:id:under_water:20200218021619j:plain

音楽がこんなところまで届いてきた

私は音楽ができない。

どのくらいできないかというと、小学校のときに数年ピアノを習い、中学では吹奏楽部に入っていたのにまともに楽譜が読めないくらいにはできない。

隣の音符同士が些か近すぎるような気がするし、ちょっと上下に移動するだけで区別をつけたつもりになられると困る。
片仮名のコとロだって棒を付け足したりして気を使ってくれてるのに、隣と向きを変えるぐらいの気遣いがあって欲しい。

五線譜に入らないまではなんとか見れるし、五線譜へ突入してもミとファあたりまでは頑張れるけど、五本のうちの中3本のゾーンいるともうなにがなんだかわからなくなる。
じい、と目をすがめて下からいち、に、さん、し…までいかなくて、さん、のうえ…ドだわ…と数えなきゃいけない。
視力検査みたいだし、これでリズムにのるなんて正気の沙汰ではないので、諦めて音符に振り仮名をうっていた。

こんな人間なので、音楽についての知識はミジンコほども微塵もないので、今日は音楽の話だけどただの読書感想文を書きます。
鑑賞感想文とも言い難いやつ。



実は去年から今年にかけて、ずっっっっと国家資格の受験勉強をしていた。
大学はこの資格を取るために通っていたので、これが取れなければただのその分野に詳しいおばさんになってしまう。それはめっちゃ嫌。
けれども、数年前から準備できる生真面目なタイプでも無ければ見たらすぐ覚えるタイプでもないので、間違えて何度も反復学習してやっと身につけていっていて、模試の成績もびっくりするくらい上がらなかった。

友達同士では無神経なことを言わないようにしていたが、同級生には本当にお前は小学校で心のノート書いたんか?という発言をするひともいて、ちょっと傷ついたりとかして

でも何より、こうやって自分の努力とか知識とかが数字として評価されて返ってくるということは中々心が疲弊する。
本当に自分はつまらない人間だ…何も成し遂げられずに終わるんだ…という気分になると、今回とは関係ない、過去に傷ついたことも思い出してしまう。

母に、最低やなと吐き捨てるように言われたこととか
友人に、優しいから何でも言っていいと思って、つい意地悪なことを言っちゃうんだよね、と言われたこととか

またじくじく痛んできて、掘り返してまた傷ついてる自分も嫌で
いなくなっちゃいたいな、とたまに思ってしまう。もう、全部投げ出していなくなっちゃいたいな、と。


King Gnuを知ったのは近々(きんきん)の最近すぎるのだが、あっという間に夢中になってしまった。
紅白は勉強していたので見てなくて、きっかけは1月のはじめにyoutubeで、ボーカルの井口さんのラジオを見つけたこと。
全員で楽曲のアコースティックカバーを演奏していて、めちゃくちゃカッコいい曲だしめちゃくちゃいい声と演奏じゃん…となってアルバムを聴いた。
あとラジオも聞いた。疲れていたからと思いたいが、下ネタで爆笑する体になってしまった…
井口さんのくだらない話を聞かないと取れない疲れという分野が爆誕してしまい、後戻れない感がすごい。

曲の話に戻ります。
1曲目の開会式が始まった時点で、え、ここどこ?となった。
え、なんかちがうとこ来ちゃったんだけどここどこ?自習室に体だけ置いて違うとこ来ちゃったんですけど…
となり、曲が始まってからはシンプルに凄いとしか言えない。すごい。
冒頭で言った通り専門的なことはな〜〜〜んもわかんないので、演奏の何が凄いとか、楽曲の何が凄いとか、歌声の何が凄いとか何もわかんないんだけど、とにかくそれはすごい体験だった。

確かにその時私はceremonyの中にいて、最終曲の閉会式がおわり、こちらに帰ってきた時なんだか体から毒気が抜かれていた。
目の前には1曲目から1つも進んでいない参考書が広がっていて、いつもはまた時間を無駄にしてしまった…となるところだが、
ceremonyを聴いたあとは、いっちょやるか、とペンを握り直せた。

どうしようもない事も自分にうんざりすることも、沢山、本当に沢山あるけど、そういう時は自分のセレモニーをすればよいのだ。

それからは、つらくなる度にちょっとceremonyするか、とイヤホンを付けることにした。
もちろんKing Gnuは1枚目のアルバムも2枚目のアルバムも最高だし、井口さんの井上陽水のカバーも最高なので何でも聴いたけど、つらい時はceremonyだった。

逃げ出したいし、いなくなっちゃいたい時にそのアルバムを聞くと、本当に違うところに連れて行ってくれた。
ここではないどこかに、どっか遠いところに。
そこでceremonyをすると、また大丈夫になれる。またもう少し頑張ることができる。

ペンを置いて、猫の毛みたいなふわふわのマフラーに顔を突っ伏して、イヤホンから管楽器の音と騒めきが聞こえ始めると、硬くなった心が柔らかくなっていく感じがした。

母の言葉で喉からこみ上げてくるものを押し殺して、ごめんなさい、と言ったこととか
友人の言葉に強張る顔を動かして笑いかけたこととか
そうやってきて傷つかないよう硬いもので覆った心が、音にそれを取っ払われ、柔らかくなって、音の中でただ感性になれる気がする。

外の音はceremonyの音がかき消してくれるから、私はそこでは柔らかいままで大丈夫。
そうやってなんとか最後の1ヶ月を切り抜けて、走り抜けました。


ファンになって思わずファンクラブに入ってしまって、少しインタビューなどの情報を見たんだけど、どうやら彼らにとって2019年は怒涛の年だったらしい。
確かに曲はちらほら聞いたことがあったし、音楽に疎い私が知らなかっただけで、大活躍の1年だったようだ。
それでメンバーの皆さん全員疲れていらっしゃるみたいで、今回のアルバムのceremonyは原点回帰するためのものだとおっしゃっていた。
音楽がやりたくて全員集まっているから、と。

それを見て、こんなに凄い、こんな遠いところにいる誰かに届くようなものを作る人が、
思うように表現できない、やりたいことができないなんてことにはなって欲しくないな、そんな世の中じゃないといいな
と思ったんだけど
同時に事実として、彼らが自分をすり減らして2019年頑張ってくれた恩恵をうけて
今、私みたいな音楽に疎いところに届いて、助けて貰ったということはあって、
感謝しかないなあ、と思う。

何かを創り出して、そしてそれを届けようと努力してくれるってことは、想像よりずっと難しくて大変なことだろうから


雪解け、水が流れ始めた感じがする。
King Gnuの音楽を聴いて、カチカチに凍っていたものがやっと溶けて流れ始めてきた感じ
久しぶりすぎて、水音がちょっとくすぐったい感じ
だけど、もっともっと沢山のことに心を動かして、轟音になればいいなあと思う。

King Gnuももっともっと日本に世界に轟いて、大きな音に群れになればよいなあと思う
全員でずっと楽しそうに音楽をやってくれるといいなあと思う


徒然:魔女おばあちゃん集会で会いましょう

綺麗になりたい。と思っているいつも。

容姿に昔からコンプレックスが多いので、自分の顔立ちに文句つけたいところは色々あるが、私はそれを全部改善したら満足できるわけではない。ということが最近わかってきた。


この間、可愛い顔立ちで生きてきたひとと電話をしていて、容貌が老いるのが怖いということを言っていた。

シワやシミで、自分の顔が老いるのが怖いと。

私も服やメイク、髪型など容姿に拘りが強い方なので、み〜きち(私のこと)もそう思わない?という話だった。

たしかに乾燥して顔がシワシワのカサカサになったり、歯が無くなって健康に噛めなくなったりしたら嫌だが、容貌が衰えるのが怖い、という気持ちは持ったことがない。

まあ、顔立ちでちやほやされたこともさしてないということもあるだろうけど。

でも、人の顔って歳をとるほど顔立ちとかシワとかシミとか関係なくなる気がする。

(最低限の清潔感と健康な肌や歯、血色がよいというような容姿は大切だけどね)

文句を言いそうなおばさんは文句を言うぞ、という顔をしているし。

セクハラをしそうなおじさんは、セクハラをするぞという顔をしていて、予感が当たることが多い。

見た目で判断できないこともまだあるが、そこは私が未熟者なのもあるはず。精進である。

20歳までは親の顔というけれど、歳をとればとるほど自分の顔になる、という実感がある。

何がそうさせるのかはわからないけど、自分の生き方が自分を形作るのは事実なのだろう。


彼女と同じように、私も綺麗になりたいと思っている。常に。

肌はつるつるしてたいし、まつげはぱっちり上げたいし、唇にはよい色をのせていたい。

けれど同じくらい、語るべき好きなものを見つけたいし、自分のセンスに自信を持ち、素敵なものを日々アップデートしながら生きていきたい。

そう考えると、容貌がどうのというより、歳をとって沢山のものに触れて、自分の世界を広げるほうが、よっぽどワクワクしない?

私はワクワクする。美術館で感動に震えるのも、音楽で天才がいる…と痺れるのも、素敵な洋服や靴に出会い運命だ!と飛び跳ねるのも、これから何度もあると思うと、すごくワクワクする。

楽しそうに笑う目元にシワが出来ればよいし、無骨なアンティークの指輪が似合うくたびれた手元も憧れる。

若いころには似合わなかったもので、新しい自分も発見できるかもしれない。

すごく料理や編み物が上手になっていたりして。やだめっちゃ楽しみじゃん。


私は大鍋で料理をして、独創的なインテリアの部屋に住み、いろんなものを創り出す魔女みたいなおばあちゃんになるのが人生の目標なので、それに向けて日々精進である。


彼女も巻き込んで、魔女おばあちゃん集会を開催しちゃおうかな。