水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

装いを選ぶ

装うこと、について考えている。千早茜さんの『クローゼット』を読んだ。洋服の美術館を舞台にした物語で、服を見るもの選ぶのも着るのも好きな私としては知らなかった"好き"にまつわる世界だった。物語はもちろん面白く、知らないこと美しいものが沢山でてきて、興味深く味あわせていただいた。その中でやなやつとして出てくるアフロヘアーの高木さんが、洋服が好きで真剣に向き合っている顔の綺麗な男の子に正論を突きつけられた時に吐き捨てた言葉が私の胸にぐさりと刺さってしまった。

「お前みたいな奴になにがわかる!

なに着ても様になって、ろくに努力しなくても人にちやほやされてきたお前なんかに」

いやな登場人物としてみていた高木さんが途端に血の通った暖かさを持つ存在になって、顔を真っ赤にして眉を寄せて、悔しさに唇を歪ませた様が眼に浮かび、自分も同じように顔が赤くなっているのではないかと思った。高木さんはもちろん間違っているし、綺麗なひとがなんの苦労もないと思うのは偏見も甚だしい。けれども私はその時、正しい綺麗な男の子の側ではなく、高木さんの側にひどく共感してしまった。

今でこそ服を選び身につけるのは楽しみのひとつだが、昔は苦痛なことだった。何をどう着ていいのかわからず、選んだものは却下され、身につけるとダサいと言われるばかりだった。

私は容姿に華がない。顔のつくりはあっさりとしていて、印象に残りづらく、地元の友達に似ていると言われることもある。対して、姉はデパートに並ぶコスメブランドのファンデの色が追いつかないほど白い肌を持ち、清楚でありつつも華やかな顔立ちの美人だ。美しい子供というのは何を着せても本当によく似合うもので、特に飾り立てないほうがその美しさがよく際立った。姉のお下がりは姉が着るとあんなに素敵だったのに自分が着てみればその輝きは失われてしまい、がっかりした。引き算に引き算を足せばマイナスは増える一方なのだ。

加えて姉はセンスがよく、自分に似合うものがよくわかったし、両親や祖父母との好みも合致していた。姉が選んだものは許可され、私が選んだものは却下される度に、どんどん服を選ぶことや身につけることが恐くなってきた。そこには買う人や評価する人の好みという正解があり、その正解を導き出さねばならない試練を受けているような心地になっていた。

完璧なコンプレックスから私の服選びは始まった。いいと言われるものを選ぶこと、惨めにならないものを選ぶこと、それが条件だった時は装うことはちっとも楽しくなかった。

変わったのは沢山の雑誌を読み、体型を評価し痩せたり、数多くの変、おかしい、ダサいという言葉を乗りこえ、自分で服を選ぶことを手に入れた時。自分で選んだものを身につけるという自由は痺れるほど幸せで、服というジャンルを通して、私はなりたい自分になっていいのだということを知った。

与えられたものなんて、選び取った好きなもので塗り替えてしまえばいいのだ。自己は不変ではなく、素敵だと思うものに向かって変わるのは悪いことではない。服は最も変えやすい自分の一部だと思う。

高木さんの怒りや悲しみは私に近いものがあると思う。私達は服に選ばれない側で、何を着ても似合うというわけではない。慎重に吟味と熟慮を重ねてこちらが服を選んでいかねばならない。そうしなければ上手くいかない。それは服に限ったことではないだろう。

けれど変わることができる。人は変わる。自分が身につけるものは、ことは、自らの手で選び取ることができる。そして身につけた時、胸を張れるものを私は選んでいきたい。

きっと高木さんも選んで、変わっていくんだろう。

もとに華がないぶん、沢山の華を手に入れることができる。スタイルを損なわないラインの服を着てアクセサリーをいっぱい付けたり、フリルやレースをあしらった鮮やかな服を着たりするのが似合う、とやっとわかってきた。それは美しい姉には過多になるものであったりして、装うことは奥深いと感じる。

昔の自分よりずっと今の自分が好きだ。

ずっとずっと、皺ができても、髪がうすくなってもそう思っていたい。だから私は選び続けたいし、変わり続けたい。

f:id:under_water:20180625232815j:plain

口癖

ひとりで暮らし始めてからというもの、自分の生活スタイルが見えてくる。休日の朝は大寝坊するよりいつもより少し遅いぐらいに起きたほうが好きだとか、午前中に家事をするのが気持ちいいだとか、毛布は着れなくなるギリギリまでしまいたくないだとか。

それに加えて、自分は独り言を言わないタイプなのだということも分かった。誰にも会わずに過ごすなら、一言も喋らないのだ。あ、とかう、とかぐらいなら言っているのかもしれないけど、意味をなす言葉をあまり発しない。数日人に会わないと喋らなさすぎて、そういえばまだ声が出せるのかな?と疑問に思ってあーーーなんて言ってみることもある。

こんな調子だからこそ、自分の口癖というものにひとり暮らしをして初めて気づいた。というか、今まで言っている意識がなかったし、もしかしたら、いまひとりであるという気の緩みがこの口癖を生むのかもしれない。それは全く頭に浮かぶとか考えるとか感じるとか、とにかく脳を介する感覚が皆無なので、本当に口癖としか言いようがないのだ。

私の口から、するりと、勝手に、

「しにたい」と出てくる。

ひとりきりの部屋で初めてこの言葉を耳にした(もしくは意識して聞いた)ときは驚愕した。自分の他に誰か居るのかとさえ思った。けれども、どう考えても今の声は聞きなれた自分の声で、なんだって、しにたいだって!?と信じられない気持ちになった。そのとき私はこれっぽっちもしにたいなんて思っていなかったからだ。

それに気づいてからというものの、やたらと言っているということがわかった。今日の失言について考えたとき、朝のミルクティーを飲んでひと心地ついた後、鏡から目を逸らしたとき、ふと窓からみた空が青く晴れていたときも。それには法則性があるような、ないような調子で口をついて出てきた。嫌なことを思い出したり反省したりした時はまあ、当たり前に出てくるのだが、落ち着いた幸福を味わっているときも出てくるのだ。綺麗だなぁと思った直後に自分の口から、「しにたい」と出てくるときさえあった。ひとつだけ明確なのは、その言葉は"完全にひとりきり"のときしか出てこないということだった。なので、幸いなことに誰も私のこの口癖を聞いたひとはいない。

困った。あんまり心理学には詳しくなく、スピリチュアルな方でもないが、これがよくないものであるとは思った。あるのかわからない運気も悪くなりそうだし、壁には祖母が高名なお寺から取り寄せたお札さんもいることだし、こんなに言うのだからと言霊が本気にしても困る、と思ったのだ。

それからは口から「しにたい」という言葉が出てきたときには、続けて「しにたくない、しにたくない、しにたくない」と反対の意を3回唱えることにした。流れ星も3回言えたら願いを叶えてくれるそうなので、3回という数字はきっと大切だ。

それを続けていたら、今ではごっちゃになったようで「しにたくない」が意図せず口からこぼれてくるようになった。もう何が何だか、おまえは死の病にでもかかっているのかと、自分でも呆れて笑ってしまう。

思えば、私はいつも終わりを待ち望んでいた気がする。小学校がつまらなさすぎて、早く大人になりたいと思っていたし。中学は自分づくりに必死で、しんどい早く終わって欲しいと思っていたし。高校は死に物狂いで勉強したので、早く大学に受かりたいと思っていたし。何かの終わりを待ち続けていたなあと思う。

こうして大学までやってきて、それなりの自由を得るとなんの終わりを待ち望めばいいのか分からなくなってしまったのかもしれない。そうして結局、最後の終わりを意識してしまったのかもしれない。

大学も終盤に差し掛かり、乗り越えねばならないことが現れてきたので出てくる頻度は減った。ほっとしていた。正直、普段へらへらしている自分のこういう暗い側面が現れてくると、自分の事ながら怖いし、気味が悪かった。

無意識に口から出てくるぐらいなので、全く思っていないことはないのだろうとは分かっていたのだけれど。

一度、大学の勉強でひどく躓いて留年しそうになったことがあって、それは乗り越えられたのだけど、その恐ろしさはしばらく残って夢に見た。その夢のなかで私はいよいよ留年してしまって、何もかも終わりだ、と思って、これからどうしよう、と思って。

そして、「よし、死のう」と思ったのだ。

あの時の感覚は夢のくせに鮮明に今でもこびりついていて、なんだか、人生でもそうそう経験したことの無い快感だった。遺された家族がとか、留年くらいで自殺なんて情けないとかちっとも思い浮かばずに、心にズシリと沈んでいたものがふわっと軽くなって、完璧な正答を導き出し、これが最高の結末である。と自分を心から褒めたくなった。これから先の死を想って、わくわくした。

目覚めたあと、自分の危うさに愕然とした。私は夢を滅多に見ない代わりに、久しぶりに夢を見ると現実との境が曖昧になってしまうのだけれど、上体を起こしたまま暫く動けなかった。今見た夢が現実ではないということを記憶をゆっくりと辿って確認して、深く息を吸い込んでベットから這い出した。

そのとき、薄ぼんやりと、私は自分が思っているより取り扱い要注意な人物なのかもしれない、とわかったのだ。よろめいたら、このまま海に落ちて沈んでしまいたいと思うのかもしれない。事実、私は足場の悪いところや高いところが恐い。自分がすぐ死んでしまいそうだからだ。ああいうところが平気なひとは、肝が座っているだけではなくて、自分が死ぬなんてちっとも考えたことがないんではなかろうか。

あれから自分の扱いには気をつけている。きつくなったら放って置かずに、どうしたの?と聞いてやり、ご機嫌にさせるために好きなことをしよう、と動いたり。私はひとから見ると、いつもにこにこと機嫌が良さそうに見えるらしいので、自分の機嫌は自分でとるのが一番だ。それに気づいてから、きつくなることは少なくなったと思う。

出処がわからず、なんだだろう?理由がわからない。なーんともないのに。みたいな事も、自分から出てきたものならば、確かに自分の感情の一端なのだと思う。私の口癖は、自分へのSOSみたいなものだったのかもしれない。

f:id:under_water:20180612022826j:plain

ここはいつかの虹の向こう

今週のお題「お部屋自慢」

お部屋自慢というより、ただ自分の部屋は最高といいたいだけの話。

私はひとり暮らしを始めるまで自分の部屋、というものを持ったことがなかった。

三兄妹の末っ子で、大きくなるにつれて兄、姉、私と何につけても順に与えられてきたので、私が大きくなった頃には純粋に私に与えるスペースが家になくなっていた。元は順序立てて与えられていたものも、3人目にもなると忘れられてしまうのはもう慣れっこだったので、特別不満に思うこともなかった。そんなこんなで、小、中、高校と"自分だけの空間"を持たずに生きていた。

今となってはよく保っていたな、と思う。思春期という多感な時期なのに加えて、前の日記にも書いたが、私はそれぞれの場に適した役を演じるように生きていた。それは家庭においても例外ではなくて、両親や家族の望むいい子をしていた。

自我を持って間もないくらい幼いときは、そりゃわりと好き勝手していたかもしれないが。私には反抗期が来たことがない。3歳の自我の芽生えにおける第1反抗期は来ていたのかもしれないが、母は私がとても手のかからない子だったというから、あんまりなかったのじゃないかなどと勝手に思っている。

ともあれ、少なくとも私は意図して反抗したことはなく、家族の顔色を窺いながら過ごしている自覚があった。小学生半ばくらいからそうだったので、もうそれは染み付いて、疲れたとかいう感覚も麻痺していたと思う。

なので、理不尽だとか酷いとか思うことがあってもそういう怒りは鳩尾のあたりでぐっと押しとどめて、穏やかな顔で「そっか」「わかった」なんて言えるようになってしまって、むしろこれは長所だと思っていた。こんなのが24時間体制で続くのである。冷静に、よくやって来たな、と自分に感心する。

そうなるに至った幼少期からのまごまごした思いは高校に入るあたりに、勉強すればなんとか解決するだろう。というなんだか乱暴な結論に至って、控えめに言っても私は猛勉強した。もともと出来があまりよろしくないので、それでもたかが知れているが、とにかく家族のいい子として納得してもらえるくらいの学部にひょんと入ることができ、地元を出ることになった。

そうしてひとり暮らしが始まった。

大学があるのは坂ばかりの狭い港に面した街で、土地がとにかく無かった。なので家賃の低い部屋はわりと高いく狭い場所にある。建築士の父はこの街をみて、どの家も建築法違反だな、と笑った。

私はごく普通の一般家庭の出なので、利便性のいい高い部屋は借りられず、階段をえっこらえっこら登らねばならないような部屋を借りた。見学に行ったときはまだ部屋に人が入っていたので、内覧すらできなかった。だけれどなんだか直感で、この部屋がいい。と決めてしまった。そうして、その直感は大正解だった。

この部屋は西日がよく入る。黄昏の光を満喫した後に紺碧に世界が沈むのをじいっと待っているのが好きだ。もう、誰にも、なんでこんな暗くしてるの?電気くらいつけなさい。なんて言われない。

本を置くスペースはあまりないけれど、気軽に行ける距離に図書館もあればTUTAYAもある。ふと思い立って何を借りてこようとも、誰にもそんな時間があるくらいなら、なんて言われない。

道路からも離れるので、車の音もほとんどしない。朝の鳥のさえずり、春にはかっこう、鳶の口笛、猫の喧嘩が聞こえるくらい。そして近所の家々は猫の額ほどの庭に沢山の植物を植えて道にまではみ出しそうな勢いだ。その、自由さもいい。

そして何より

好きなことをして良い。好きなことを誰の目も気にせずしていい、という環境は、楽園だ。

姉は進学で地元を出てから、1ヶ月はホームシックで泣きながら電話してきたり、家に帰ってきたりしていたのに、私はカケラも寂しいなんて気持ちが起きなかった。清々しい解放感でいっぱいで、電話すらも怠るものだから、母に最初はチクリと言われた。

私の部屋は、すごい。

虹の向こうには素晴らしい国があるというけれど、ここはそれにも劣らぬ、素敵な場所だ。

この部屋は私の好物を作るシェフ(もちろん自分)のキッチンがある

この部屋は大好きな映画を流す映画館がある

この部屋は私の拙い作品を作るアトリエになる

この部屋は好きなだけ読書旅行を楽しめる時間がある

この部屋は日々の役に疲れた中の人の私を受け入れてくれる

誰にも見つからない、隠れ家。

ふと窓を見ると、電線で区切られながらも高い空が一面に見える。

誰もいない所でこっそり声を殺して泣きながら、自分が自分でいられる場所が欲しいと思った私にとっては夢のような、あの虹の向こうのような。

この部屋は、私だけの虹の向こうの国。

f:id:under_water:20180604153957j:plain

思うなら語ってくれよ

これは宣誓みたいなものにしようと思う。

昨年の今頃の時期に心がきつい、ということをはっきりと自覚して、どうにかしなければならないと思った。人生で初めて食べれないという体験をした。

私はもともと色々な役を担うイメージで日々の人間関係とか、仕事とかをこなしている節が昔からあって、もうそれは幼少期から染み付いているものなので、"無理をしていない自分"というものかどういうものなのか、曖昧になってしまっていたと思う。

だから、今、きつい。と思ったときも、それは一体どの部分の自分がきつくて、どの部分の自分が心地いいのか。情けないことに全く見当がつかなかった。


だから、書いてみることにした。


なんでこんなにぴくりとも動けないほど疲れているのか、日々が憂鬱で仕方なくなるのか。考えるだけではなくて、ペンを握って書くと、あああれがつらかった、これがきつかった、そしてこう感じた。とどんどん言葉にすることができた。そして自分の感覚を言葉という形にしたとき、「私はこういう気持ちだったんだ。」と正確に手に取ることができたのだ。

またつらくなってきた時に読み返すことで、今のひとりぼっちの私に、書いた時のひとりぼっちの私が寄り添ってくれるような、誰にも会いたくない夜をひとりで過ごさなくていいような心地になったのだ。(矛盾しているようだけど、誰にも会いたくないけど寂しい。ということがある)


それに加えて、ぼんやりとしたものを言葉という形にすることは、予想外の快感というか、楽しさがあった。飽きることなく、言葉にすることは続けていった。

苦しい時期も過ぎ去った夏の終わりから、好きなものも言葉で形にするようになった。そうすると"好き"が手に取れる上に、また読み返すことができる。すごく素敵なことを大発見してしまった。


ちょっとしたことを書くことを始めると、誰かのちょっとした書き物を読みたくなる。ちょっとした書き物の代名詞といったらツイッターが一番だろう。私はツイッターとインスタの違いは文書か写真か、だと思っている。ツイッターはその人の思考が文字となって流れてくるもので、インスタはその人の見た景色が写真となって流れてくるものなのではなかろうか。まあそんなことでツイッターの書き物を探し回るアカウントをつくり、目に届く範囲のものを楽しんでいた。楽しませていただいていた。享受するだけで。


いろんな、素敵な、文書や考え。それらに触れれば触れるほど、貰うだけなのが申し訳なくなってくる。感想や感謝を送ろうにも、生来の引っ込み思案がいつどこで送るか?なんで騒ぎ出してなかなか送れない。

そんな中、椎名林檎さんの『人生は夢だらけ』という曲中に

"この世にあって欲しい、ものをつくるよ"

というフレーズが出てきた。冬の始めの季節だったと思う。清々しい冷たい空気を吸い込みながら、ああ、そうだね、そうだな。と思ったのを覚えている。

私は弱いから、チープで簡単でお手軽なものをつくりがちだけれど、本当にほんとに欲しいのは、誰かが手を込めた唯一無二のものだ。

よし、つくろう。と心に決めた。


それからアカウントを整理したり、書く場所を探したりしてうろうろしていたらこんな時期になってしまったけど。とりあえず、始めてみることにする。


ここに書く言葉が欲しい人なんてほんの少しだろうし、なんじゃこりゃと思ってばってん押されて消えてしまうことがほとんどかもしれない。

でも、私の言葉も、きっと誰かから貰ったものだから。だから今度は誰かに渡そう。

そしたら、またきっと誰かが私に言葉をくれる。 思うなら、語ってくれよ。言葉はきっとループする。