水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

それは反射鏡のように

私は、自分が美しくないということを知っていた。


奥二重の小さな目だし、眉はヘンテコな三角形をしていて、歯並びも出っ歯気味だ。

肌も普通にニキビに悩むし、髪も癖がよく付き毎朝作品が出来上がっている。

乾燥しやすいので手にはささくれが多く白魚どころか岩壁のようで、謎のアレルギーにより瞼が3年ほど腫れた時期もあった。

そこらへんにいる、内向的な、さして美しくもない、肌の弱い女の子、それが私だった。

どうして、”さして美しくもない”と付くかというと

私の姉は美しい女の子だったからだ。


彼女はくるりとした大きな目を持ち、ふっさりとした形の良い眉、ぷくりとした血色の良い唇、おまけに肌はすこぶる白く、髪は細い麻色だった。

指はほっそりと長く、輪郭は卵型、脚もすらりと細く長い。

社交的で頭の回転が速かったので、大人の会話に入っていっておきゃんな言い返しをしては、よく笑顔の中心にいた。


まるで物語の主人公のような姉が心から自慢で、けれど、現実をよく突きつけてきたのもその存在だった。


周りは心ある人達だったので、直接的に姉と比べられたことはそれほどない。

けれど、少しづつ態度や視線に現れていくその差は心に降り積もっていくものだ。

そしてその瞬間は、あるとき膨れた水風船が小さな針で弾けるようにやってきた。



母方の祖母の姉妹あたりの遠い親戚だったと記憶している。ゆうに数年ぶりに会った私たち姉妹は小学校も半ばを過ぎ、徐々に子供から女の子へなり始めていた。

現れた彼女はわっとこちらへ駆け寄り、姉に向き合って肩へ軽く手をかけると

「まあこんなに綺麗になって。」「モデルさんみたいねえ。」

と笑いかけた。姉は照れたようにその白い頬を緩ませた。

そうして、横にいた私に彼女の視線が向いた


瞳が揺れた気がした。ほんの少しの沈黙と眉がぴくりと下がった。

私はその表情に憐れみを感じる程にはもう大人だった。

「大きくなったね。」と彼女は微笑んだ。


その時、すとん、と腑に落ちるように、私は自分の容貌が美しくないと評価されることを明確に理解した。


それ以来、私の人生は「美しくないから」という言葉に支配されていくことになった。

美しくないので、良い子でいないといけない。

美しくないので、面白くなければいけない。

美しくないので、勉強ができなければいけない。

重りを付けた滑車のようなもので、引き上げるには多大な労力を要するが、労力かけた分回る時の勢いは凄かった。貪欲な目でおちゃらけた態度を研究し、執念のように良い子に振る舞った。しがみ付くように勉強した時期もある。


長い間美しいことの代用品を探し続けた。なんでも良かった。美しくないことを乗り越えられるならなんでも。苦しくても、つらくても、歯を食いしばって泣く夜があっても、自分は美しくないという事実を飲み込むほどのものが得られるのなら、なんでも良かった。


代用品を探すのをやめたのは、ほんの2年前だ。

家族、友人、恩師、人から私自身への評価は"良い子"という形に収束するようになり、息をするように冗談を口にするようになり、世間的に学歴と言われるものも得た。


それらは考え抜いた、美しいことの代用品だった。時間と労力をかけてやっと得たもののはずだった。それなのに、ある晩、「私はなにをしてるんだろう」と、思ってしまった。


私が得たかったのは、こんなことなのかな?

もっとちがう、何か違う、例えば自分の手でなぞれるような、ひとりの夜も確かめられるような

これじゃない。誰かの目や評価でやっと安心できるようなものじゃなくて。欲しかったのは、こんなものじゃないということは、もう、よく分かっていた。



ずっと長い間、自分の中でほったらかしにしていた部分があった。

感性、と呼ばれるものだと思う。人の目を気にするには傷つきやすく柔らかく脆い心の一部なので、できるだけ触らないように努めていた。

代用品探しは、色々なものを切って捨てる必要があったけれど、ここだけはいつか捨てたくても捨てられず、同時にここを失ったとき、自分を自分たらしめるものを見失ってしまうような気もしていた。


感じることをやるめるのは、水中に潜っているようなものだと今なら思う。

酸素ボンベで吸っても吐いても、めいいっぱい深呼吸する気持ち良さには決して叶わないのと同じで、感じないことで生きてはいけるが、それはひどく息苦しい。



代用品探しで十数年続けてきた習慣は変えることはなかなかできないけど、今まで閉じていた部分を徐々に開いていくことはできる。少しづつ外壁を塗り固めるより、内側を整理したり新しいものを吸収したりしていくこと。私の場合は、読書とものづくり、考えて文章にすること。これらは、やりたかったけれど優先順位が低いとしてやめていたこと、だった。


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生まれ変わったみたいに、世界が眩しくて堪らなくなった。


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本の一節、映画のワンシーン、猫の目、帰り道の木陰、はじめてのフルーツ、5月の散歩

素敵なものがここらそこらに沢山あって、自分の言葉にすればまた一層光輝くようで。

「美しい」と思うものをいっぱい見つけて、見つめていく。

そうすると不思議なことに、以前よりずっと褒められるようになった。

友人から目がきれいよね、とか

薔薇を一緒に眺めたおばさまに薔薇に負けないくらいきれいよ、とか

くすぐったくなるような言葉を貰えるようになった。


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以前、美しいことの代用品を探していた時の方が、ずっとずっと美しくなりたかった。

誰にも負けないくらい、ずうっと美しくなりたかった。

だけど、美しいということを憎んでいた。美しくない自分がいることが悲しいから。


今は美しいものを愛せる。抱きしめたり、触れたり、眺めたりできる。

もし、私が美しく見える時があるとするのなら

それは私を取り囲む美しいものたちが反射しているのだと思う。

きれいだな、眩しいな、と目を細めた顔に、その光が映っているのだろう。


美しくないことを憎むには。もう美しいものを知りすぎてしまった。

見るからに美しい人やものはもちろん。姿、形なんてものにとどまらない、言葉や眼差しの美しさを。

それらが与える感動は心をどうしようもなく震わせて、私の心に打ち付けられ、まるでダイヤモンドが削り出されていくように一層輝きを増していく。


だから私はこの先も、自分の信じる美しさの中で、生きていきたいと思う。

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大好きなshe is(https://sheishere.jp/)さんの2月の公募、「美は無限に」に寄せて書いたものです。