バスに乗って観に行った日
今日のことを話します。
昨日ビールを飲んだらそのまま寝てしまって、7時に一度起き、また目が覚めたら9時45分だった。
もののけ姫を映画館まで見に行きたかったので、12時の上映までには間に合わないといけない。慌てて用意をして、お気に入りの夏の空みたいな真っ青のタンクトップで出かけた。
ジブリの映画は郊外のショッピングモールまでバスに揺られて行かなければならず、春に越してきて以来乗ったことのない路線バスの停留所に向かわねばならない。しかも時間はない。
走れるように台湾で友人に誕生日プレゼントだと買って貰った紫色の花の刺繍が施された中華靴を履く。これなら思い切り走れるから。ぺったりとした靴底で、踏み締めた感触が直に足に伝わってくる。
走ったので汗をかきながらバスに乗り込んだ。曲がるときに遠心力のような力が強くかかるバス独特の揺れに足を取られる。
換気のために少し開かれた窓、そこからの生温い風を打ち消す勢いで冷房が吹き上げているから暑くはないが、セミの鳴き声が大きく聞こえる。
その声は郊外へ出て、緑が濃くなるほど大きくなっていく。ミーンミンミンミン、はアブラゼミだったかな。セミには詳しくない。
汗ばんだ自分のタンクトップから出た腕がしっとりとしているのがわかる。
いつも真夏に着るから、この青い服を着ている時は汗の記憶とともにあって、この服を着ているから汗ばんでいるような心地になる。
緑色に光る田園が眩しかった。
ショッピングモールに着くともう上映時間になっていた。走ってチケットを買って滑り込む。まだサンとアシタカが出会っていないので、セーフ。
「そうだ、私は人間だ。そしてお前も同じ人間だ」
「違う!私は山犬だ!…来るな!」
玉の小刀でアシタカの胸を刺すが、そのままサンは抱き止められる。
自分自身がどれほど否定したって、自分自身は変えられず、自分の生い立ちも変えることはできない。
相手のことは変えることはできず、救うこともできないけれど、共に生きることはできる。
些細すぎて、大きな力の前では笑ってしまうほど小さすぎて、でもその些細な力や想いが人を人たらしめる力なのではないのか。
鉄の礫の前にはもののけも無力で、神でさえ撃ち抜かれてしまう。
生死の前には人も無力で、逃げ惑っても飲み込まれてしまう。
それは自然、そして私たちが神と呼ぶものに委ねられるしかない。
「シシガミよ!首をお返しする!」
シシガミ様の首を掲げるサンとアシタカを見ながら、夏休みのこども科学電話相談というラジオであった「人間がはじめたことは、人間が終わらせられるはずなんだ」という言葉が胸にこみ上げてきた。
その首を打ち落とした訳ではないのに、首を返そうとするサンとアシタカに祟りの黒い痣が広がっていった。けれどその瞳の強さは損なわれない。アシタカがサンを抱き寄せる。
人にできることがある。
でも、人にはどうしようもないことも確実にある。
森が生きること、もののけが生きること、
だけど人間が生き続けるかどうかも人間にはどうしようもなく、もののけにも、森にも、もしかすると神にもどうしようもないこと。
シシガミの起こした風で死に絶えた森がまた芽吹いた様を「シシガミは花咲じいさんだったんだな」というセリフがある。
緊張感のあったシーンの後で、笑ってしまうほど間の抜けた感想だったけれど、それは確かな詠嘆だった。
美しいということばのひとつだった。
満開の桜のように、芽吹いた森は美しい。
生きろ、そなたは美しい。
帰りのバスでは、最後尾の広い席に腰掛けた。いつのまにか雨が降りはじめていて、コンクリートと緑が水を含んだ香りがむわっと夏の夕暮れに立ち込めていた。
大きな雨粒がポツポツと降っているだけだからか、窓はまだ空いている。
光っていた緑色が、雨をふくんでしっとりと濡れていた。相変わらずぬるい外気をかき消すほど冷房が吹き付けてきて、タンクトップの腕を冷やす。
トルコ雑貨屋さんでとても綺麗なクッションカバーと青空に気球の飛んでいくカッパドキアの風景が描かれたポーチを買ってご機嫌で、何度もちらりちらりと紙袋を覗く。
前の席の子の古びた本なのにバックカバーが掛けられていることとか、その前の席の子のキャップの後頭部にミッフィーの刺繍がされていることとか、そんなことも眩しく見える。
生きることは美しいな、と目を細めた。