水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

あの水の中で泳いで

もし、音楽が人のかたちを取るのなら、崎山蒼志くんになるんじゃないだろうか。

そう思えるくらいに凄いライブだった。音に声に圧倒されて、響く音があまりにも厚くて途中までバンドが演奏してると思っていた。
これはもう体験と呼べる部類のものだ。会場の後方にいたので人混みに埋もれていたのもあってか、水の中に沈んでいる様な感覚がずっとあった。音がそこに満ち満ちていて、私たちは魚のように呼吸をする。音楽を呑み込んで酸素を得る。ここでしかできない息の仕方。
 
水に関する曲をします、と言ってから更に深いところへ沈んで、激流になった。
押し流されない様に思わず踏ん張る、自分をぎゅっと掴んで目を瞑る。耳の横を流れがかすっていくような感覚さえする。
それから殆ど目を閉じていた気がする、波の音や川の流れを聴くときのように身体を任せたくてそうしたのかもしれない。
 
『はたち・みずのかたち』というタイトル。これがはたちかあ、と思ってしまう。
何かをしっかりと握りしめて生きていれば、二十歳という歳でここまで辿り着けるものなのだろうか。
私は音楽や詩や小説など、そういったものは創らないのであくまで想像になってしまうけれど、そういうものって語るよりも自分自身が滲む、あるいは曝け出されてしまうものなのではないだろうか。
私もちょこちょことこういった文章を書く様になって、以前より内省するようになったと思う。
作品を創り上げるまでに、どれほどの内省と客観と葛藤があるんだろう。それを幼少〜二十歳まで行い続けるって…彼を天才で語り尽くしてはいけない何かが、そこにある気がする。
 
天才というワードが出ると、どうしても大好きなブルーピリオドという漫画が浮かんでくる。
絵画とか美術に関する漫画なのだけれど、主人公の八虎は「俺は天才じゃないから人よりコストをかけてる、それだけだ」という。
しかし、彼が天才と称する世田介くんは「俺には絵しかないから」「何でも持ってるヤツがこっちくんなよ」と八虎にいう。
正直ど素人には凄い人がどちらであろうと、天才だ!と思ってしまう。
崎山くんがどちらにあたるのか、または違った形なのかはど素人たる私には全くわからないが、中学生で天才少年として一躍有名になった彼がここまで、はたちになるまで音楽というものにどれだけ時間をかけて、何かを犠牲にして、そしてこれを愛して育んできたのかを考えると、胸が熱く苦しくなる。ありがとうね。
 
恩田陸さんの小説の一節を読んでから、芸術とは人生の澱の上の上澄みである、という考えを持っているのだけれど、彼の人生の上澄みがこれほど澄み渡った水であり、その中で呼吸できた今夜がとても幸福だった。
崎山蒼志くんの音楽への愛と感性が、彼を幸福へと連れて行ってくれますように、小さな部屋で魚はそう祈ってしまいます。