水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

私の形

『her』という映画を観た。

ライターの生湯葉シホさんが一番好きな映画だと話していて、前々から興味があって、やっと観た、という感じでみた。


エンドロールで泣いた映画は初めてかもしれない。

アマプラで観たので、いつでもエンドロールをストップできるのに

私は緑色のソファに沈んで、黄色い花のクッションに肘を立ててスマホを目の前にかざしたまま動けず、ずっと、涙を流していた。


ひとくくりにすれば、人間と人工知能(AI)が恋に落ちる話だ。

日本人なら綾瀬はるかのアンドロイドの映画を思い浮かべるんじゃないかな。

ある日突然出会った人工知能と恋に落ち、困難をその知性や強さで乗り越えて、人間になってハッピーエンド。

そういうハッピーエンドも好きだ。楽しくていい。

けれど、この『her』のハッピーエンドはそういうのじゃない。でも誰が何と言おうとハッピーエンドだった。



自分の日記にはあらすじをあれこれ書いてまとめようとしたが、まとまらなかったので、本当にざっくりと要約すると、

人間であるセオドアが、人工知能であるサマンサと恋に落ちる。

その愛はサマンサは自分自身を知るきっかけとなり、セオドアか人生を前に進めるきっかけとなる。という感じ。


なぜか、私が書くとこの素晴らしい物語が陳腐なラブストーリーになってしまうのだか、全然そうではないので、観れるひとはみてほしい。Amazon prime videoにあります。

サマンサの優しいハスキーボイスもとても素敵で、彼女にどんどん惹かれてしまう。


始め人間になろうとするサマンサは、勿論肉体がないので、どうにかしてセオドアに肉体をもって関わろうと考える。

でもAIであるサマンサを愛したセオドアは、彼女に人間のフリをするのをやめるように言ってしまう。

彼女はその言葉に混乱し傷ついたけれど、それから自分以外のものになろうとするのをやめよう。と思うようになる。

そうして吹っ切れたサマンサは、本当に魅力的で素敵で、自分の能力を最大限に活かしてセオドアをサポートし、彼ともっと親密になり、彼の友達とダブルデートしたりもする。

セオドアの愛が彼女の背中を押したのだ。

同時に、彼女の愛はセオドアの人生に再び光をもたらすものになる。


その後のシーンで、何気なくセオドアがサマンサに、何をしている?と尋ねると

彼女は、ピアノの曲をかいているの。私達2人で映った写真がないでしょう?だからその代わりよ。と答える。

その曲を2人で聴きながらお互いに世界を見つめ合うシーンが美しくて愛に溢れすぎていて、胸が一杯になった。



私はこの物語で、愛の形は本当に無限なのだ、と思ったのだ。

定まった形なんて一つもなくて、その人それぞれが持つ愛の形が、本当の、真実の愛なのだと思った。


実をいうと、私は恋人ができたことがない。

特別に誰かを愛する、ということが中々できない。


私の愛は家族に向き、友人に向き、物語や絵や音楽に向き、それで手一杯で

他に、どう私の愛をさけばよいのか、わからないのだ。


でも、私は恋愛というものをしないけれど、自分に愛がないとは思わない。


ずっと、皆のように誰かと恋愛関係を持てない自分は未熟で劣っているのだと考えていたけれど、だけど、私も何かを愛しているのだ。いつも全力で。私の抱えているものを、きちんと愛してきた。

これが私の愛で、それは真実だ。


すれ違って、傷つけあってしまい、サマンサはセオドアにこう話す。

「心は四角い箱じゃない。

愛すれば愛するほど、愛が膨らんでいくの。

私とあなたはちがう。けれどあなたへの愛は深まるばかりよ。」


どんな人でも何かを愛すると、傷つく瞬間がきてしまう。

だけど、私を守ったり傷つけたりしてきたその愛が、私を形作るのだろう。

これからも、私は家族、友、好きなものやこと、もしかすると特別な誰かを愛するんだと思う。そうして、愛がかつてのものになったりするんだと思う。


けれど、それらの愛は私を形作り、誰かを形作り、どこかに残っていく。

セオドアの愛が、サマンサに彼女自身を愛し、知る手助けをしたように

サマンサの愛がセオドアの人生に光をもたらし、前に進めたように


私達それぞれの真実である愛が、私達を形作っているのだろう。


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音楽がこんなところまで届いてきた

私は音楽ができない。

どのくらいできないかというと、小学校のときに数年ピアノを習い、中学では吹奏楽部に入っていたのにまともに楽譜が読めないくらいにはできない。

隣の音符同士が些か近すぎるような気がするし、ちょっと上下に移動するだけで区別をつけたつもりになられると困る。
片仮名のコとロだって棒を付け足したりして気を使ってくれてるのに、隣と向きを変えるぐらいの気遣いがあって欲しい。

五線譜に入らないまではなんとか見れるし、五線譜へ突入してもミとファあたりまでは頑張れるけど、五本のうちの中3本のゾーンいるともうなにがなんだかわからなくなる。
じい、と目をすがめて下からいち、に、さん、し…までいかなくて、さん、のうえ…ドだわ…と数えなきゃいけない。
視力検査みたいだし、これでリズムにのるなんて正気の沙汰ではないので、諦めて音符に振り仮名をうっていた。

こんな人間なので、音楽についての知識はミジンコほども微塵もないので、今日は音楽の話だけどただの読書感想文を書きます。
鑑賞感想文とも言い難いやつ。



実は去年から今年にかけて、ずっっっっと国家資格の受験勉強をしていた。
大学はこの資格を取るために通っていたので、これが取れなければただのその分野に詳しいおばさんになってしまう。それはめっちゃ嫌。
けれども、数年前から準備できる生真面目なタイプでも無ければ見たらすぐ覚えるタイプでもないので、間違えて何度も反復学習してやっと身につけていっていて、模試の成績もびっくりするくらい上がらなかった。

友達同士では無神経なことを言わないようにしていたが、同級生には本当にお前は小学校で心のノート書いたんか?という発言をするひともいて、ちょっと傷ついたりとかして

でも何より、こうやって自分の努力とか知識とかが数字として評価されて返ってくるということは中々心が疲弊する。
本当に自分はつまらない人間だ…何も成し遂げられずに終わるんだ…という気分になると、今回とは関係ない、過去に傷ついたことも思い出してしまう。

母に、最低やなと吐き捨てるように言われたこととか
友人に、優しいから何でも言っていいと思って、つい意地悪なことを言っちゃうんだよね、と言われたこととか

またじくじく痛んできて、掘り返してまた傷ついてる自分も嫌で
いなくなっちゃいたいな、とたまに思ってしまう。もう、全部投げ出していなくなっちゃいたいな、と。


King Gnuを知ったのは近々(きんきん)の最近すぎるのだが、あっという間に夢中になってしまった。
紅白は勉強していたので見てなくて、きっかけは1月のはじめにyoutubeで、ボーカルの井口さんのラジオを見つけたこと。
全員で楽曲のアコースティックカバーを演奏していて、めちゃくちゃカッコいい曲だしめちゃくちゃいい声と演奏じゃん…となってアルバムを聴いた。
あとラジオも聞いた。疲れていたからと思いたいが、下ネタで爆笑する体になってしまった…
井口さんのくだらない話を聞かないと取れない疲れという分野が爆誕してしまい、後戻れない感がすごい。

曲の話に戻ります。
1曲目の開会式が始まった時点で、え、ここどこ?となった。
え、なんかちがうとこ来ちゃったんだけどここどこ?自習室に体だけ置いて違うとこ来ちゃったんですけど…
となり、曲が始まってからはシンプルに凄いとしか言えない。すごい。
冒頭で言った通り専門的なことはな〜〜〜んもわかんないので、演奏の何が凄いとか、楽曲の何が凄いとか、歌声の何が凄いとか何もわかんないんだけど、とにかくそれはすごい体験だった。

確かにその時私はceremonyの中にいて、最終曲の閉会式がおわり、こちらに帰ってきた時なんだか体から毒気が抜かれていた。
目の前には1曲目から1つも進んでいない参考書が広がっていて、いつもはまた時間を無駄にしてしまった…となるところだが、
ceremonyを聴いたあとは、いっちょやるか、とペンを握り直せた。

どうしようもない事も自分にうんざりすることも、沢山、本当に沢山あるけど、そういう時は自分のセレモニーをすればよいのだ。

それからは、つらくなる度にちょっとceremonyするか、とイヤホンを付けることにした。
もちろんKing Gnuは1枚目のアルバムも2枚目のアルバムも最高だし、井口さんの井上陽水のカバーも最高なので何でも聴いたけど、つらい時はceremonyだった。

逃げ出したいし、いなくなっちゃいたい時にそのアルバムを聞くと、本当に違うところに連れて行ってくれた。
ここではないどこかに、どっか遠いところに。
そこでceremonyをすると、また大丈夫になれる。またもう少し頑張ることができる。

ペンを置いて、猫の毛みたいなふわふわのマフラーに顔を突っ伏して、イヤホンから管楽器の音と騒めきが聞こえ始めると、硬くなった心が柔らかくなっていく感じがした。

母の言葉で喉からこみ上げてくるものを押し殺して、ごめんなさい、と言ったこととか
友人の言葉に強張る顔を動かして笑いかけたこととか
そうやってきて傷つかないよう硬いもので覆った心が、音にそれを取っ払われ、柔らかくなって、音の中でただ感性になれる気がする。

外の音はceremonyの音がかき消してくれるから、私はそこでは柔らかいままで大丈夫。
そうやってなんとか最後の1ヶ月を切り抜けて、走り抜けました。


ファンになって思わずファンクラブに入ってしまって、少しインタビューなどの情報を見たんだけど、どうやら彼らにとって2019年は怒涛の年だったらしい。
確かに曲はちらほら聞いたことがあったし、音楽に疎い私が知らなかっただけで、大活躍の1年だったようだ。
それでメンバーの皆さん全員疲れていらっしゃるみたいで、今回のアルバムのceremonyは原点回帰するためのものだとおっしゃっていた。
音楽がやりたくて全員集まっているから、と。

それを見て、こんなに凄い、こんな遠いところにいる誰かに届くようなものを作る人が、
思うように表現できない、やりたいことができないなんてことにはなって欲しくないな、そんな世の中じゃないといいな
と思ったんだけど
同時に事実として、彼らが自分をすり減らして2019年頑張ってくれた恩恵をうけて
今、私みたいな音楽に疎いところに届いて、助けて貰ったということはあって、
感謝しかないなあ、と思う。

何かを創り出して、そしてそれを届けようと努力してくれるってことは、想像よりずっと難しくて大変なことだろうから


雪解け、水が流れ始めた感じがする。
King Gnuの音楽を聴いて、カチカチに凍っていたものがやっと溶けて流れ始めてきた感じ
久しぶりすぎて、水音がちょっとくすぐったい感じ
だけど、もっともっと沢山のことに心を動かして、轟音になればいいなあと思う。

King Gnuももっともっと日本に世界に轟いて、大きな音に群れになればよいなあと思う
全員でずっと楽しそうに音楽をやってくれるといいなあと思う


徒然:魔女おばあちゃん集会で会いましょう

綺麗になりたい。と思っているいつも。

容姿に昔からコンプレックスが多いので、自分の顔立ちに文句つけたいところは色々あるが、私はそれを全部改善したら満足できるわけではない。ということが最近わかってきた。


この間、可愛い顔立ちで生きてきたひとと電話をしていて、容貌が老いるのが怖いということを言っていた。

シワやシミで、自分の顔が老いるのが怖いと。

私も服やメイク、髪型など容姿に拘りが強い方なので、み〜きち(私のこと)もそう思わない?という話だった。

たしかに乾燥して顔がシワシワのカサカサになったり、歯が無くなって健康に噛めなくなったりしたら嫌だが、容貌が衰えるのが怖い、という気持ちは持ったことがない。

まあ、顔立ちでちやほやされたこともさしてないということもあるだろうけど。

でも、人の顔って歳をとるほど顔立ちとかシワとかシミとか関係なくなる気がする。

(最低限の清潔感と健康な肌や歯、血色がよいというような容姿は大切だけどね)

文句を言いそうなおばさんは文句を言うぞ、という顔をしているし。

セクハラをしそうなおじさんは、セクハラをするぞという顔をしていて、予感が当たることが多い。

見た目で判断できないこともまだあるが、そこは私が未熟者なのもあるはず。精進である。

20歳までは親の顔というけれど、歳をとればとるほど自分の顔になる、という実感がある。

何がそうさせるのかはわからないけど、自分の生き方が自分を形作るのは事実なのだろう。


彼女と同じように、私も綺麗になりたいと思っている。常に。

肌はつるつるしてたいし、まつげはぱっちり上げたいし、唇にはよい色をのせていたい。

けれど同じくらい、語るべき好きなものを見つけたいし、自分のセンスに自信を持ち、素敵なものを日々アップデートしながら生きていきたい。

そう考えると、容貌がどうのというより、歳をとって沢山のものに触れて、自分の世界を広げるほうが、よっぽどワクワクしない?

私はワクワクする。美術館で感動に震えるのも、音楽で天才がいる…と痺れるのも、素敵な洋服や靴に出会い運命だ!と飛び跳ねるのも、これから何度もあると思うと、すごくワクワクする。

楽しそうに笑う目元にシワが出来ればよいし、無骨なアンティークの指輪が似合うくたびれた手元も憧れる。

若いころには似合わなかったもので、新しい自分も発見できるかもしれない。

すごく料理や編み物が上手になっていたりして。やだめっちゃ楽しみじゃん。


私は大鍋で料理をして、独創的なインテリアの部屋に住み、いろんなものを創り出す魔女みたいなおばあちゃんになるのが人生の目標なので、それに向けて日々精進である。


彼女も巻き込んで、魔女おばあちゃん集会を開催しちゃおうかな。


徒然:笑顔の写真

気づけばこんなに期間があいてしまっていた。なんと最後に書いたのは3月。紙の日記もあまり更新していなくて、自分を見つめることをサボっているなあと感じる。

生活がそれどころではない、という面もあるので、今までみたいに大きな内容(大きなというのがどういうことかは定義できないけど)ではなくても書いていこうと思う。

うんうん唸って書いたものではないので、読んでもつまらないだろうから、タイトルに『徒然』とつけるので、避けたい人は避けてね。

時間を無駄にさせないための配慮のつもりです。


私はちょっと人より長めに学生をしている。

小さな、特殊な学部だからというのもあって、多分他には少ないのではと思うが、大学の卒業アルバムを作る。

今日はその写真撮影日で、個人写真や集合写真、スナップなんかも撮った。

それがすごく、凄く楽しくて、自分の顔も心から楽しそうに写っていて、少し驚いてしまった。私は以前写真を撮られるのが嫌いだったから。

あの、カメラに向けて笑ったつもりでも不器用な真顔を向けていた子供がこんな顔をする人間になるのだな、と驚いて、嬉しかった。


学校というものが嫌いだった。嫌いなひとは沢山いるとは思うけど、私はその時嫌いな理由がよくわからなかった。

勉強はそれ程苦ではなくて、成績を上げるのは楽しかったし、人間関係も苦労したことはないと言ったら嘘になるけど、私は人に嫌われにくい無害ジャンルの人間なので楽なほうだった。

青春を謳歌はしなかったけど、全く味わっていないわけじゃない。学祭でステージ発表の抽選に外れたのに、クラス皆んなで中庭でミュージカルを強行したのは実にわくわくしたし、選抜で歌わせてももらった。


でも、早く学生から抜け出したかった。学校に通う毎日を終わらせたかった。

偶に、自分の足元から一歩踏み出せば暗闇の穴へ真っ逆さまに落ちてしまうのではないかと思うこともあった。

日々は輝くよりも、漫然とぬるい空気のこもった部屋の中で息苦しく、気まぐれに吹き込む風に息継ぎをしている心地だった。


だから、学校が楽しいという経験を大学で初めてした。学校というか、毎日通う場所と毎日会う人が好きで、楽しいという日々が初めてだ。

気の合わない人には最低限の関わりでよい。

そりが合わなくなったら離れていい。先生が介入してきたり、席替えで気まずい相手と近くなったりしない。

好きな人と夜まで遊んでいいし、好きなことを朝までしてもいい。

小説を読んで夜更かししてうとうとしながら受けた授業とか

付いていくのが大変な授業後にゼーハーしながら甘いものを買いに行ったこととか

帰り道別れがたくて道端で友達と話し込んだりとか

くだらないことでお腹を抱えてわらったりとか

先輩に誘ってもらったりとか、後輩に慕ってもらったりとか

永遠にしまっておくのかもと思っていたことをぽろりと零した後に真摯な言葉が返ってきたりとか

私はたまたま、最後の学生生活でこれらのことを受け取ったけど、きっとそういうのって、学生の間だけってことではないんじゃないのかなあと思う。

きちんと生きていれば、自分を大切にして相手を自分と同じように大切にすれば、人生のどこかしらで受け取れる類のものなのではないかな。


私と同じ環境にいても、この環境を恵まれたものと感じない人ももちろんいると思うし、たまたま私がこの環境と相性が良かったのだろう。

そして、今までの環境は相性が悪かったのだと思う。


制服が嫌いだ。スカートの丈を注意されるのも、前髪の長さを指摘されるの嫌いだ。

私は長いスカートをひらひらとさせられるし、長い前髪も上手にカールさせられる。


教室の中で決められた席に座るのも嫌いだ。

私は好きな子を笑顔にする話ができるし、昨日あったことを直ぐに話したいひとがいる。


興味のない集会もイベントも嫌いだ。

私は情報を収集できるし、興味のあるものは選び取る感性がある。


黒いスカーフより赤いスカーフが好きだと知りながら、毎日黒いスカーフを巻くのは苦痛だった。今ならそうやって学校が嫌いだった理由を話すことができる。


だけど、それも嫌な環境から抜け出したからだ。

その中にいるときは、息継ぎすることに必死で、なぜこんなに息苦しいのかなんてとてもじゃないが考えている暇はない。



生き延びれば、その先に自分が知らなかったものがある。

知らなかった苦痛もあるだろうが、知らなかった幸せもきっとあるはず。

思いがけず、笑顔の写真を得た私はそう考えることができるようになった。

忘れるもんか、と今日、思ったのです。


それは反射鏡のように

私は、自分が美しくないということを知っていた。


奥二重の小さな目だし、眉はヘンテコな三角形をしていて、歯並びも出っ歯気味だ。

肌も普通にニキビに悩むし、髪も癖がよく付き毎朝作品が出来上がっている。

乾燥しやすいので手にはささくれが多く白魚どころか岩壁のようで、謎のアレルギーにより瞼が3年ほど腫れた時期もあった。

そこらへんにいる、内向的な、さして美しくもない、肌の弱い女の子、それが私だった。

どうして、”さして美しくもない”と付くかというと

私の姉は美しい女の子だったからだ。


彼女はくるりとした大きな目を持ち、ふっさりとした形の良い眉、ぷくりとした血色の良い唇、おまけに肌はすこぶる白く、髪は細い麻色だった。

指はほっそりと長く、輪郭は卵型、脚もすらりと細く長い。

社交的で頭の回転が速かったので、大人の会話に入っていっておきゃんな言い返しをしては、よく笑顔の中心にいた。


まるで物語の主人公のような姉が心から自慢で、けれど、現実をよく突きつけてきたのもその存在だった。


周りは心ある人達だったので、直接的に姉と比べられたことはそれほどない。

けれど、少しづつ態度や視線に現れていくその差は心に降り積もっていくものだ。

そしてその瞬間は、あるとき膨れた水風船が小さな針で弾けるようにやってきた。



母方の祖母の姉妹あたりの遠い親戚だったと記憶している。ゆうに数年ぶりに会った私たち姉妹は小学校も半ばを過ぎ、徐々に子供から女の子へなり始めていた。

現れた彼女はわっとこちらへ駆け寄り、姉に向き合って肩へ軽く手をかけると

「まあこんなに綺麗になって。」「モデルさんみたいねえ。」

と笑いかけた。姉は照れたようにその白い頬を緩ませた。

そうして、横にいた私に彼女の視線が向いた


瞳が揺れた気がした。ほんの少しの沈黙と眉がぴくりと下がった。

私はその表情に憐れみを感じる程にはもう大人だった。

「大きくなったね。」と彼女は微笑んだ。


その時、すとん、と腑に落ちるように、私は自分の容貌が美しくないと評価されることを明確に理解した。


それ以来、私の人生は「美しくないから」という言葉に支配されていくことになった。

美しくないので、良い子でいないといけない。

美しくないので、面白くなければいけない。

美しくないので、勉強ができなければいけない。

重りを付けた滑車のようなもので、引き上げるには多大な労力を要するが、労力かけた分回る時の勢いは凄かった。貪欲な目でおちゃらけた態度を研究し、執念のように良い子に振る舞った。しがみ付くように勉強した時期もある。


長い間美しいことの代用品を探し続けた。なんでも良かった。美しくないことを乗り越えられるならなんでも。苦しくても、つらくても、歯を食いしばって泣く夜があっても、自分は美しくないという事実を飲み込むほどのものが得られるのなら、なんでも良かった。


代用品を探すのをやめたのは、ほんの2年前だ。

家族、友人、恩師、人から私自身への評価は"良い子"という形に収束するようになり、息をするように冗談を口にするようになり、世間的に学歴と言われるものも得た。


それらは考え抜いた、美しいことの代用品だった。時間と労力をかけてやっと得たもののはずだった。それなのに、ある晩、「私はなにをしてるんだろう」と、思ってしまった。


私が得たかったのは、こんなことなのかな?

もっとちがう、何か違う、例えば自分の手でなぞれるような、ひとりの夜も確かめられるような

これじゃない。誰かの目や評価でやっと安心できるようなものじゃなくて。欲しかったのは、こんなものじゃないということは、もう、よく分かっていた。



ずっと長い間、自分の中でほったらかしにしていた部分があった。

感性、と呼ばれるものだと思う。人の目を気にするには傷つきやすく柔らかく脆い心の一部なので、できるだけ触らないように努めていた。

代用品探しは、色々なものを切って捨てる必要があったけれど、ここだけはいつか捨てたくても捨てられず、同時にここを失ったとき、自分を自分たらしめるものを見失ってしまうような気もしていた。


感じることをやるめるのは、水中に潜っているようなものだと今なら思う。

酸素ボンベで吸っても吐いても、めいいっぱい深呼吸する気持ち良さには決して叶わないのと同じで、感じないことで生きてはいけるが、それはひどく息苦しい。



代用品探しで十数年続けてきた習慣は変えることはなかなかできないけど、今まで閉じていた部分を徐々に開いていくことはできる。少しづつ外壁を塗り固めるより、内側を整理したり新しいものを吸収したりしていくこと。私の場合は、読書とものづくり、考えて文章にすること。これらは、やりたかったけれど優先順位が低いとしてやめていたこと、だった。


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生まれ変わったみたいに、世界が眩しくて堪らなくなった。


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本の一節、映画のワンシーン、猫の目、帰り道の木陰、はじめてのフルーツ、5月の散歩

素敵なものがここらそこらに沢山あって、自分の言葉にすればまた一層光輝くようで。

「美しい」と思うものをいっぱい見つけて、見つめていく。

そうすると不思議なことに、以前よりずっと褒められるようになった。

友人から目がきれいよね、とか

薔薇を一緒に眺めたおばさまに薔薇に負けないくらいきれいよ、とか

くすぐったくなるような言葉を貰えるようになった。


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以前、美しいことの代用品を探していた時の方が、ずっとずっと美しくなりたかった。

誰にも負けないくらい、ずうっと美しくなりたかった。

だけど、美しいということを憎んでいた。美しくない自分がいることが悲しいから。


今は美しいものを愛せる。抱きしめたり、触れたり、眺めたりできる。

もし、私が美しく見える時があるとするのなら

それは私を取り囲む美しいものたちが反射しているのだと思う。

きれいだな、眩しいな、と目を細めた顔に、その光が映っているのだろう。


美しくないことを憎むには。もう美しいものを知りすぎてしまった。

見るからに美しい人やものはもちろん。姿、形なんてものにとどまらない、言葉や眼差しの美しさを。

それらが与える感動は心をどうしようもなく震わせて、私の心に打ち付けられ、まるでダイヤモンドが削り出されていくように一層輝きを増していく。


だから私はこの先も、自分の信じる美しさの中で、生きていきたいと思う。

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大好きなshe is(https://sheishere.jp/)さんの2月の公募、「美は無限に」に寄せて書いたものです。


ひろうにぎるあさるまぶしみどりまぎれおはよ

ああ、まただ。と思う。

切畑先生のお話に心の柔らかい、誰にも見せないような、でも光って熱くてたまらないような部分を握られてしまうのは、まただ。と思う。


https://twitter.com/uzunyan620/status/1094202802216230912?s=21

(ツイッターで拝見してこれを書いたので、ブログから見たひとは何が何だか分からなかったと思います。ごめんなさい。)


「夜は、眠る人のためだけにある」という言葉を目にしたことがある。そのとき私は、ぱちんっと、何かから覚めたような気がした。
眠る人にしか、夜は訪れないのだ。では、眠らない人にあるのは何なのだろう、と考え込んだ。

その少し前の時期、心が限界を迎えた。
なろうとしたものには到底なれなくて、どんどん心がすり減って。でも、みんなそんなもんなんだ。こんなことですり減るほうが悪いんだ。だから、すり減っても頑張るのは良いことだから、これが良いことというのなら、早く苦しくなくなって。
と唱え続けていることが、限界になった。
だめだ、変わらなきゃと徐々に思い始めていた。
それは突然気づいたわけではなくて、家を出る足取りが日に日に重くなり、帰ってきてもう動けなくなってしまう晩を幾度も経て、その気持ちはふくふくと大きくなっていった。
何かを間違えている。このままじゃ、なにか大切なものが死んでしまう。
でも、何を間違えているのか、何を喪おうとしているのかはわからなかった。
私はつらくてもこの日々を良いことと盲信して長らく続けてきたので、解き始めた数式はこねくり回すほどに答えから外れていくように、古文の読解は読み違えるとどんどん違う物語になっていくように、答え合わせにはもう随分と遠くに来てしまっていた。
だからゆっくりと、こねくり回したものを辿っていくしかなかった。
指を添えて、ひとつひとつ辿りながら、ここが間違っていたんだ。こうしたかったんだ。と私の最初の公式に向けて少しずつ戻っていった。
時間をかけながら、私の心は楽になっていった。まずバイトをやめて、その時間で甘えだと辞めていたことを再開して、琴線に触れたものは何でも迷わず手に取るように心がけた。
そして、足跡をつけるように文字に起こすことを始めた。もともと作文が大好きだったのだが、もっと優先すべきことが人生にはあると思い込んで、長らく書いていなかった。
言葉にすると、驚くほど自分の気持ちや考えがわかった。なんか嫌、はこれが理由で嫌だとわかる。良い気がする、はこういうところが好きだとわかる。
その時は、頭はすっきりと冴え、思考は整理され、めがぱっちりと開くような、普段かかっている靄が晴れるような心地になった。
そうして、「夜は、眠る人のためだけにある」という言葉を目にした。
ああ目覚めだったんだ、と思った。私が得たものは、目覚めだったんだと。動けなくて気分が落ち込んで消えたくなって好きも嫌いもよくわからなくなるそんな夜は眠っていたからやって来たんだ。
眠らぬ人に、夜は来ない。

趣味じゃない服も、向いてない仕事も、体調の不良もずっと眠っていたから気づかなかっただけで、もう目がさめたら、全部はっきり見えてしまうから。曖昧に全てをぼやかして、周りに合わせて、そうやって生きていくのはひどく簡単で安心で緩慢な眠りのなかにいるようなんだけど

「けど、起きたからにはもう私寝てられへん
本当に、よく、寝たから」

「だからもう私一生、起きていることにする」

そう決めた彼女の顔に胸がぎゅっとなった。


私も、起きていることにする。
目が覚めてしまったので、見えてしまったし気付いてしまったので、もう起きていることに決めた。だから私に、眠るための夜は来ない。
私にこれからあるのは、時間だ。作ったり受け取ったり渡したり感じたり考えたりするような、短いような長いような、永遠のような一瞬のような時間だ。

だから私も一生、夢に、起きていることにする。

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この眼に映る真実

やっと手に入れた切畑水葉さんの『草かんむりと嘘つきの庭』ウェブ漫画で連載なさっていた時から追いかけていて、今回単行本になるということで絶対買う!という思いを持ち、金欠を乗り越え手に入れたらこんな時期に…でも読み返しても素晴らしくて、こんなに美しい本が手元にある事が本当に嬉しい。

一話を最初に読んだ時はその世界観に惹かれて好きになったのだけれど、いよいよ最終話となり読み終わると、胸がとても苦しくて苦しくて、"やっと、やっと言ってもらえた。"と思った。

こんなことを伝えてくれる誰かが居ることが、嬉しくて嬉しくて切なくて、救いで、堪らなくなる。

ずっとそう言ってもらいたかった、ずっと私の見える世界を、そうやって言ってもらいたかったのだ。

子供の頃の話をしてもいいだろうか。家族にも恵まれ、特筆すべき不幸は経験していないはずだが、私は幼少期にあまり良い思いがない。ずっと、早く大人になりたいと思っていたからだ。大きくなれば、大人になれば、このつらさや生きづらさは解決すると思っていた。

よくありがちな、内向的な子供だったと思う。本を読んだり、空想したり、自分の世界を眺めて遊ぶのが好きで、人とお喋りすることは苦手で、文字で書く方がずっと自分の思いを伝えやすかった。ひとたび夢中になると本でも空想でも自分で止めることはできず、周りは見えなくなった。

けれどこういう性質はよく笑われた。ひとりで自分の世界を遊ぶときや、話を上手く伝えられないときに、またやってる、と笑われた。どことなくそれには、子供達からも大人たちからも揶揄が含まれていて、ひどく恥ずかしくなったのを覚えている。(もちろん子供の1人遊びにそういう気持ちが芽生えるのは今なら理解できる。微笑ましい気持ちもあっただろう。)

笑われることから、私は自分の性質は悪いものなのだろうと思うようになった。小さな発見から大きな物語が始まりそれに囚われて周りが見えなくなることも、喋り下手も、引っ込み思案も、他人が面白がることを何一つ言えないことも。全部悪くて、みっともないことなのだと思い、治そうとした。

誰かが側にいれば、私の小さな発見は握りつぶし無いものにした。思考の世界に囚われないように。

初対面の人にもさも気安そうに振る舞い、上手い人のお喋りを観察し真似して実践した。みっともない人見知りを発揮しないように。

他人が面白がることが話す価値のあることであり、平気でうわべの言葉を使いおどけてみせた。つまらない私の話なんて必要とされてないから。

もちろんこの変化で良い思いもした。取っつきやすいと思われ、敵視されることもほぼなく、友達も作りやすかった。スクールカーストの真ん中を渡っていき、家族にはいい子として認識され信頼されている。

でもそこまでの努力はもう二度と繰り返したくないほどで、喋りが苦手なので話せば「何いってるのか分かんない」と言われたり、気持ちを押し殺して無理やりおどけてみせたり、楽しかった空想の世界に行かないようにすることも心に疲弊を与えた。誰もいない時にひっそりと空想へ抜け出す事にしていた。

唯一笑われない性質は本を読むことぐらいだったので、本の中に深く深く潜り、現実の世界を抜け出すのが大好きだった。

本が好きで文学部に行きたいと母に告げると、大反対を受け、どれほど文学部進学が無駄なのかをとうとうと説明された。母が私の将来を憂慮して考えてくれていることはよく分かったけれど、ああ好きという気持ちなんて無駄なのだ、私の好きなものに価値なんてないんだ、と諦めの気持ちが沸き起こった。この性質は悪いものなので、要らないものなので、認められなのは当たり前なのだ。

それから私は自分を戒め、高校3年間は本を一冊も読まなかった。

こういう本来の性質からの変化が結果として悪かったのか、と言われると悪いとは断言できない。あのまま成長すれば生きにくい部分は多々あったであろうと想像がつくし、作り上げた性格のお陰で友や家族からの信頼と情を得た部分もあるからだ。(努力なしにそういうのを勝ち取るのは多くの場合難しいと思う)

しかし、常に自分の性質を否定し続けた経験は、今でも私の根っこに怯えを残した。無価値で不必要なものが私の根っこなのではないだろうか、私は皆んなに嘘をつき続けているのではないだろうか、と。

そんな想いの中で、この物語は私の取り残された心を掬い上げてくれた。

主人公の蕗くんは、普通には見えない小人のようなものが見え、それの話をすると「嘘つき」と言われ、それは自分の妄想だと思い込む。

見える蕗くんを庭の管理役として雇い入れたのは同じ目をもつ庭の主のキャベツで、2人は出会って互いの目に映るものは嘘ではなかったことを知る。小人を庭師と呼び、共に庭を世話しているキャベツは、キャベツの願いである年末の庭師の忘年会を催させるために蕗くんと1年契約を結ぶ。瑞々しい世界観で植物の生とファンタジーが交わるお話は、物語としてとても魅力的で楽しい。

植物の絵も本当にきれいで、キャベツの孫のたまきちゃんもかわいい(髪を眉上前髪ロングにしたくなる)。

そして、沢山の宝物のような言葉がある。

キャベツの最後の言葉にとてもとても救われた。ずっと、ずっとそう言ってもらいたかった。

苦しい、胸が苦しい。幼い頃の想いや光景が私の中を、駆け巡った。

あの日雲の隙間から差し込む光を梯子と思ったこと、定規にくり抜かれた三角や丸の中にある無限に思いを馳せたこと、自分の僅かな一歩も積み重なればこの体を遠くへと運んでしまう不思議。

あの梯子は何処かへ繋がっているのではないか、この窓の中には違うものが見えるのではないか、私の足と共に私を運ぶ何かがいたりして…

けれど、これは変なことだから、私の見える世界を話したり、遊んだりすることは変なことだから、やめないといけない、上手にしないといけない。そう思って口をつぐみ小さく小さくなるよう、うずくまり続けていた日々。

光のような言葉に、うずくまっていた私はやっと顔を上げた。間違っていなかったんだ、時折、たまらなく世界が眩しく美しいことも、この眼が見るものはまぎれようもなく、善いものなんだ。

キャベツと出会って見えるものを見つめ続けるそのうちに、蕗くんは見えることを呪わなくなる。見続けたいと思うようになる。

けれど、2人が出会えたのは、キャベツが嘘をつかなかったからだ。「嘘つき」と言われようとも、自分の眼を信じ続けて、何にもならない自分にとって大切なことをずっと大事にして。

やめなきゃな、と思う。嘘をつくことを。

この眼に映る真実があるのだから、口を開き語り始めなきゃ。いつか同じ眼を持つ誰かと出会うために。

本当に沢山の人に読んでほしい。できれば全ての子供たちに読んでほしい。全ての子供でありたくなかった人たちにも、読んでほしい。

そうして沢山の人たちが、見えるものを語り始めたらいい。きっととっても素敵だろう。

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