水面下

言い訳と記録

『モネ、それからの100年』

友人のとこへ遊びに東京へ、同時に気になっていた横浜のモネ展にその子と行けることになりとても楽しかった。友人の発見もその度の宝物で、この子の感性が好きだなあと思っちゃったよ。

モネの絵は実物を初めてみた、テレポート能力があるみたいな絵だった。

私はふとした拍子に又は意図的にでも、美しさに圧倒される自然の景色を目の当たりにすると、切なくなってしまう。胸の奥がぎゅうと苦しくなって、もうどうしようもなく。この刹那に、このひと時に終わってしまうからか、またきっと私の知らぬ間に現れるからかわからないけれど、切なくなってしまうのだ。

あの、屋外にしか存在し得ないはずの気持ちが、美術館の回廊でやってきた。その絵を見ると、どこかで感じたことのある、何かがやってきて、でもこんな所で会うはずがなくて。一目みてから、あれ?おかしいな?この気持ちは…と違和感があったけれど、あの朝靄の中のロンドン橋や朝日と雪解けの川面を見た時、私の胸はありありと切なくなり、なんてことだ、と思った。連れてこられてしまった、あの場所へ。モネの見た世界へ。その感動へ。

「私が描きたいのは、私とカンヴァスの間にある何かなのだ。」という言葉そのものがモネの絵だ。

彼の絵には本物の景色と同じ、又はそれを超える何かがある。ひとは誰しも自然の美しさに目を奪われてしまったことがあるだろうけど、その時の気持ちと同様のあるいはよく似たものがそこにはある。

私はその時、額縁という視界にモネの見た世界を写してしまったのかもしれない。

友人と話しながら見ていると、睡蓮はふと目に入った時が最も衝撃的だという話になった。睡蓮の展示室は壁がアーチを描きそこに飾られていて、その部屋に四角く切り取られた入り口から睡蓮に対して横に入っていくのだけれど、入室のその時、ちょうど目に入るのはアーチ状の壁に掛けられ斜めに角度のついた睡蓮。そしてその睡蓮は、まるで水面に浮いているかのように、花が浮かび上がってくる。正面からももちろん美しいが、部屋に入った時のあの一瞬がなんとも言い難い感動があった。

モネからインスピレーションを受けた現代アートも数々展示されていた。その際時代が近づくにつれ芸術は生活に近くなってくる気がする、という話も友人とした。宗教画やアカデミーの絵は美術館で立派な額に飾られて見たい。印象派は部屋に欲しい。朝のミルクティーを片手にキッチンから居間に入ってくる時、ふと目についてその素晴らしさにしみじみとしながら一服したい。現代アートはそのままポーチにして持ち歩くのもいいね。なんてね。

あの時代しか生まれ得なかったものがあるように、今しか生まれないものもきっとある。見逃したくないな、と思う。

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