水面下

言い訳と記録 @underwaterilies

音楽がこんなところまで届いてきた

私は音楽ができない。

どのくらいできないかというと、小学校のときに数年ピアノを習い、中学では吹奏楽部に入っていたのにまともに楽譜が読めないくらいにはできない。

隣の音符同士が些か近すぎるような気がするし、ちょっと上下に移動するだけで区別をつけたつもりになられると困る。
片仮名のコとロだって棒を付け足したりして気を使ってくれてるのに、隣と向きを変えるぐらいの気遣いがあって欲しい。

五線譜に入らないまではなんとか見れるし、五線譜へ突入してもミとファあたりまでは頑張れるけど、五本のうちの中3本のゾーンいるともうなにがなんだかわからなくなる。
じい、と目をすがめて下からいち、に、さん、し…までいかなくて、さん、のうえ…ドだわ…と数えなきゃいけない。
視力検査みたいだし、これでリズムにのるなんて正気の沙汰ではないので、諦めて音符に振り仮名をうっていた。

こんな人間なので、音楽についての知識はミジンコほども微塵もないので、今日は音楽の話だけどただの読書感想文を書きます。
鑑賞感想文とも言い難いやつ。



実は去年から今年にかけて、ずっっっっと国家資格の受験勉強をしていた。
大学はこの資格を取るために通っていたので、これが取れなければただのその分野に詳しいおばさんになってしまう。それはめっちゃ嫌。
けれども、数年前から準備できる生真面目なタイプでも無ければ見たらすぐ覚えるタイプでもないので、間違えて何度も反復学習してやっと身につけていっていて、模試の成績もびっくりするくらい上がらなかった。

友達同士では無神経なことを言わないようにしていたが、同級生には本当にお前は小学校で心のノート書いたんか?という発言をするひともいて、ちょっと傷ついたりとかして

でも何より、こうやって自分の努力とか知識とかが数字として評価されて返ってくるということは中々心が疲弊する。
本当に自分はつまらない人間だ…何も成し遂げられずに終わるんだ…という気分になると、今回とは関係ない、過去に傷ついたことも思い出してしまう。

母に、最低やなと吐き捨てるように言われたこととか
友人に、優しいから何でも言っていいと思って、つい意地悪なことを言っちゃうんだよね、と言われたこととか

またじくじく痛んできて、掘り返してまた傷ついてる自分も嫌で
いなくなっちゃいたいな、とたまに思ってしまう。もう、全部投げ出していなくなっちゃいたいな、と。


King Gnuを知ったのは近々(きんきん)の最近すぎるのだが、あっという間に夢中になってしまった。
紅白は勉強していたので見てなくて、きっかけは1月のはじめにyoutubeで、ボーカルの井口さんのラジオを見つけたこと。
全員で楽曲のアコースティックカバーを演奏していて、めちゃくちゃカッコいい曲だしめちゃくちゃいい声と演奏じゃん…となってアルバムを聴いた。
あとラジオも聞いた。疲れていたからと思いたいが、下ネタで爆笑する体になってしまった…
井口さんのくだらない話を聞かないと取れない疲れという分野が爆誕してしまい、後戻れない感がすごい。

曲の話に戻ります。
1曲目の開会式が始まった時点で、え、ここどこ?となった。
え、なんかちがうとこ来ちゃったんだけどここどこ?自習室に体だけ置いて違うとこ来ちゃったんですけど…
となり、曲が始まってからはシンプルに凄いとしか言えない。すごい。
冒頭で言った通り専門的なことはな〜〜〜んもわかんないので、演奏の何が凄いとか、楽曲の何が凄いとか、歌声の何が凄いとか何もわかんないんだけど、とにかくそれはすごい体験だった。

確かにその時私はceremonyの中にいて、最終曲の閉会式がおわり、こちらに帰ってきた時なんだか体から毒気が抜かれていた。
目の前には1曲目から1つも進んでいない参考書が広がっていて、いつもはまた時間を無駄にしてしまった…となるところだが、
ceremonyを聴いたあとは、いっちょやるか、とペンを握り直せた。

どうしようもない事も自分にうんざりすることも、沢山、本当に沢山あるけど、そういう時は自分のセレモニーをすればよいのだ。

それからは、つらくなる度にちょっとceremonyするか、とイヤホンを付けることにした。
もちろんKing Gnuは1枚目のアルバムも2枚目のアルバムも最高だし、井口さんの井上陽水のカバーも最高なので何でも聴いたけど、つらい時はceremonyだった。

逃げ出したいし、いなくなっちゃいたい時にそのアルバムを聞くと、本当に違うところに連れて行ってくれた。
ここではないどこかに、どっか遠いところに。
そこでceremonyをすると、また大丈夫になれる。またもう少し頑張ることができる。

ペンを置いて、猫の毛みたいなふわふわのマフラーに顔を突っ伏して、イヤホンから管楽器の音と騒めきが聞こえ始めると、硬くなった心が柔らかくなっていく感じがした。

母の言葉で喉からこみ上げてくるものを押し殺して、ごめんなさい、と言ったこととか
友人の言葉に強張る顔を動かして笑いかけたこととか
そうやってきて傷つかないよう硬いもので覆った心が、音にそれを取っ払われ、柔らかくなって、音の中でただ感性になれる気がする。

外の音はceremonyの音がかき消してくれるから、私はそこでは柔らかいままで大丈夫。
そうやってなんとか最後の1ヶ月を切り抜けて、走り抜けました。


ファンになって思わずファンクラブに入ってしまって、少しインタビューなどの情報を見たんだけど、どうやら彼らにとって2019年は怒涛の年だったらしい。
確かに曲はちらほら聞いたことがあったし、音楽に疎い私が知らなかっただけで、大活躍の1年だったようだ。
それでメンバーの皆さん全員疲れていらっしゃるみたいで、今回のアルバムのceremonyは原点回帰するためのものだとおっしゃっていた。
音楽がやりたくて全員集まっているから、と。

それを見て、こんなに凄い、こんな遠いところにいる誰かに届くようなものを作る人が、
思うように表現できない、やりたいことができないなんてことにはなって欲しくないな、そんな世の中じゃないといいな
と思ったんだけど
同時に事実として、彼らが自分をすり減らして2019年頑張ってくれた恩恵をうけて
今、私みたいな音楽に疎いところに届いて、助けて貰ったということはあって、
感謝しかないなあ、と思う。

何かを創り出して、そしてそれを届けようと努力してくれるってことは、想像よりずっと難しくて大変なことだろうから


雪解け、水が流れ始めた感じがする。
King Gnuの音楽を聴いて、カチカチに凍っていたものがやっと溶けて流れ始めてきた感じ
久しぶりすぎて、水音がちょっとくすぐったい感じ
だけど、もっともっと沢山のことに心を動かして、轟音になればいいなあと思う。

King Gnuももっともっと日本に世界に轟いて、大きな音に群れになればよいなあと思う
全員でずっと楽しそうに音楽をやってくれるといいなあと思う